忠臣蔵異聞

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 元NHK交響楽団の常任指揮者だった、ホルスト・シュタイン氏が亡くなった。大村益次郎を思わせるような鉢の張った頭が印象的だが、その繊細な音の響きは忘れ難いものがある。カラヤンやバーンスタインは、見た目の華やかさで管弦楽を魅了したが、彼は違う。むしろ観客席からは見えない、裏のオーケストラピットでその実力のほどを示した。
 仮名手本忠臣蔵の四段目は、古くから「通(とお)さん場」という。ここは判官切腹、焼香と続くので、茶屋から運ぶ弁当、菓子、茶などはもとより、遅れてきた客は場内に入ることができない。オペラなどと違って歌舞伎は普通、途中からでも出入り自由なのだが、この一幕に限り厳しく制限されている。静寂が命の場面だからである。
 検使役二人と判官、力弥と家来だけの舞台。しんと静まり返っているのに、明らかに大勢の人の気配がする。しかし銀襖に人の姿はない。やがて「大星由良之助参らるるまで、一人も御対面は叶いませぬぞ」というところで、襖の奥から嗚咽がもれる。その響きは舞台から地面を伝い、なんと客席の足の裏にまでズズズと響くのである。実は誰もいないと思っていた襖のむこうに、大勢の諸士たちが平伏していたのだった。彼らは衣裳鬘をきちんとつけて舞台下手に居並び、皆々聞き耳を立てている。「すりゃ御対面は叶いませぬとな」で声を合わせウ、ウーッとすすり泣きをはじめる。二十人ほどの男たちが肩衣を震わせ歔欷(きょき)する有様は小波のように広がり、やがて地の底を震わせてゆくのである。客席から見えない裏にこれほどの人間が関わっているとは。こういうコクこそ、後世に残る芸の味なのだろう。
 情熱的で、ぎゅっと絞れば作曲家の心が滴る演奏。ホルスト・シュタイン氏のタクトは見えない裏の地底をすくい上げて音を紡いできたのではなかったか。不意に、胸のつまる思いがした。(挿絵・川浪進)

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08/10/17│歌舞伎のツボ│コメント2

コメント

春香さん こんにちは!
秋晴れの素晴らしい日となりました。

今回はまた違った切り口からのお話し。
十分堪能させていただきました。

「通さん場」、静寂が命の場面があるのですか!

キリスト教の礼拝でも、遅れる方もおられます。
気分の悪い方は退室されます。

ただ、入室できない時間があります。
「祈りの時間」です。
神への祈りを捧げる時間は、静寂の中で牧師が祈る。
または信徒の祈りが会堂に響きます。
そして皆で調和して「アーメン」。
会堂中に響き渡り、全身に充ち渡ります。
思わずこんなことを書いてしまいました。すみません。

「見えない裏の地底をすくい上げて音を紡いできた」
すばらしい春香さんの感性と表現に感動しています。

それにしても、川浪画伯はどんな絵も描かれるのですね。
絵にも感動です!!

お春さん

今週のテーマは前回と少し似ていますね。スポットライトはあたらないけれど、陰から支える大事なお仕事。

一つのお芝居が仕上がるまでに、一体どれほどの人々が関わっているのでしょうね。歌舞伎のチケットが高いはずです。ウフフ。

いつも、(お春さんの文から)今週は一体何が飛び出すのか!?と楽しみにしているのですが、今週は音楽ですか。スゲエ♪

大村益次郎の顔なんて知らなかった!ウフフ。

「通さん場」の舞台の様子、よおくわかりやした。流石、お春さんの表現力は大したモンダ!

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