001010_山宣プロフィール
山宣プロフィール
07年05月10日(木)
1889年(明治22)5月28日
京都市の繁華街、新京極でワン・プライス・ショップという名の今でいうアクセサリー店を営む山本亀松、多年の一人息子として生まれた。両親は熱心なクリスチャン。病弱のため神戸第一中学校を中退した山宣は、両親が彼の養育のために建てた宇治川畔の別荘(後に料理旅館「花やしき浮舟園」に発展)で花づくりをして育った。神戸中学時代の先輩に竹久夢二がおり、後に妻千代の絵を描く。
1906年(明治39)
大隅重信邸へ園芸見習いのために住み込む。
1907年(明治40)
18歳、園芸研究のためカナダ・バンクーバーに渡り、5年間皿洗い、園芸、鮭捕漁夫などの仕事をしながら、苦学生の生活を送る。ダーウィンの「進化論」学ぶ。この時期、労働者としてのたくましさと科学的なものの見方を身につける。
1911年(明治44)
父の病気を理由に帰国。旧制第三高等学校を経て東京帝国大学へ進み、動物学を専攻。
1920年(大正9)
京都帝国大学大学院入学。また、同志社大学予科講師となり学生に「人生生物学」を講義。性教育啓発家としての活動を始める。
1922年(大正11)
アメリカの産児調節運動家サンガー女史の訪日をきっかけに、労働者農民の中で産児制限運動を始める。
1924年(大正13)
京都労働学校長となり、労働者教育に携わる。この頃、「産児調節評論」(後に「性と社会」と改題)を発行する。
1926年(大正15)
日本農民組合に入り、南山城地方の小作争議を指導。
1928年(昭和3)
38歳、第1回普通選挙に京都府第2区より立候補し当選。第56帝国議会で、3・15事件などでの官憲の拷問を取り上げて政府を追及。
1929年(昭和4)3月4日
大阪での全国農民組合大会で挨拶。「実に今や階級的立場を守るものは唯一人だ。だが僕は淋しくない。山宣一人孤壘を守る。しかし、背後には多数の同志が‥」ここで祝辞は中止させられた。この言葉は、墓碑銘として刻まれている。
同年3月5日
治安維持法改正緊急勅令の事後承諾案反対のため、発言原稿を準備して議会に臨んだが妨害にあって発言できず。その夜、東京・神田の宿舎において、右翼「七生義団」のテロリスト黒田保久二により暗殺される。享年39歳。
山宣なきあと、日本は満州事変から上海事変へ、太平洋戦争へとつき進んでいった。