002010_山宣研究
治安維持法に対峙しつつ日本の文化政策の構築に貢献した人たち(3)
08年08月 5日(火)
全日本無産者芸術家聯盟
橋浦泰雄は、1928年3月に結成された「全日本無産者芸術家聯盟」(ナップ)の中央委員長となっている。その結成にむけ、各地の有力者らに会いに回っている。そのひとつが自ら「ヤジキタの旅」と称している建築家・田上義也(たがみ・よしや)との北海道の旅である。田上は建築家としては北海道随一の先達であり、全道を回り、大地に根づいた建築を造り上げた。北海道銀行本店ビル、札幌北一条教会、網走市郷土博物館などが代表作である。筆者も懇意にした人である。田上は橋浦の11歳年下であるが、互いに気が合っていたらしい。橋浦は札幌滞在中に描き溜めた絵で個展を開き、売り上げ金で1924年4月中旬から5月上旬にかけて、田上はバイオリン、橋浦は絵筆を携えての珍道中となった。風風紀の絵葉書を順にたどっていくと、4月23日留萌・小見、24日網走、27日~5月3日国後島、4日釧路…となっている。
積丹半島を回った所にある岩内で5月21日、北海道を代表する漁民・画家である木田金次郎に逢い、下北半島東端の塩尻に原始共産制の所があると聴き、後に訪れることになる。それが柳田国男に評価され、民俗学を開く基礎となった。
橋浦は札幌を足がかりに北海道に出かけ各地の画家や先達たちと会い、民俗学の素養を身に付け、東京に戻ってナップ設立に力を尽くす…。各地を駆け巡り、美術家の統一と団結を図りつつ、16歳年下の大月源二の成長を見守り、励ましてきたのである。
その後1928年11月、移動展形態でナップの第一回展覧会が計画的に開かれていった。まず東京の新宿、大島、小石川の3カ所で行われ、新宿は約1100人の参加者のうち、900人がインテリゲンチャ、200人が労働者であった。各地の諸団体との連携のもとに青森県下では黒石、青森、弘前で行われ、九州の八幡、小倉、福岡、八代、志布志では様々な圧力にもかかわらず堂々と遂行されている。この2カ所の来会者は2000人を超え、その大部分が労働者・農民であったことは主催者を勇気付けた。
山宣が謀殺された1929年の5、6月には、ナップ企画の関西共同巡回展が行なわれ、京都、大阪、神戸の催しに並行して、国民にアピールするための講演会を開催している。その弁士の一人に大月源二が出ている。
大月源二と小林多喜二は1931年に日本共産党に入党している。橋浦泰雄は1年前の30年12月に入党しているから2人を勧誘したのは橋浦かもしれない。もうひとつ、入党を心に強く決めさせたのは、山宣の死であろう。画家の矢部友衛の入党は1948年であり、戦前戦後を通じて随分苦労されたようだ。矢部の絵画「労働葬」は戦後、上野の国立美術館より出品が依頼されたが、絵画は手元になく、出品できなかったと、姪で「矢部友衛素描集」を編集した豊田さやかさんが証言している。