002010_山宣研究
竹久夢二と山宣
2007年5月15日 18:28
美人画で有名な竹久夢二と山宣は、神戸中学で2年違いの同窓生。夢二は8カ月で退学したので、二人の出会いは、大正元年(1912)11月23日から12月2日までに岡崎の府立図書館で「第一回夢二作品展覧会」が開かれた時だと思われます。
山宣は、夢二に正月を「花やしき」で過すように勧め、夢二は1月2日から5日間滞在しています。交流が深まり、夢二は大正5年(1916)11月、33歳で京都の東山の高台寺門前町に引っ越してきました。まもなく夢二が東山区の二年坂へ引っ越した時は手伝いにもいっています。同時期、山宣も結婚して祇園下河原町に移り、いっそう親しく交際するようになりました。
山宣といっしょに夢二の引越しの手伝いをした安田徳太郎は、貧乏所帯の中でも多くの洋書やハイカラな洋食器をもっていた夢二のことを回想しています。また、「宵待ち草」などの絵を描いてもらった山田市蔵は、三高・東大と山宣の同級生だった山田種三郎の弟で、「テニス友だちに女の手ばかり描いている友人がいる」と山宣に夢二を紹介したともいわれています。当時、夢二は社会的には評価が低かったのですが、山宣は「ほんとうに民衆の心をつかんだ夢二さんの絵は50年、100年後になっても残り、時代がたつほどに素晴らしくなるだろう」とほめちぎったと言います。
「まてどくらせどこぬひとを 宵待ち草のやるせなさ こよいは月もでぬそうな」(宵待ち草)
夢二は、22才のころ大逆事件のデッチアゲによって死刑となった幸徳秋水らが作った平民社機関紙『直言』にコマ絵を掲載し、平民社の荒畑寒村らと自炊生活もしていました。安田氏は夢二が「宵待ち草」の「詩に託して社会主義の到来を待った」と述べています。大逆事件被告処刑の翌年、明治45年(1912)に発表された「宵待ち草」の真意は定かではありません。
写真上:夢二が描いた宣治の妻・千代のスケッチ(1913年正月)
写真下:富士山から出した夢二の書簡(左)と、東大時代の宣治へ宛てたはがき(右)
『山本宣治写真集』(不二出版)より