004010_山宣と私
山宣に仙台の地は踏ませない 帝国議会初演説余話〔3〕─藤田廣登
2007年5月21日 16:01
15日の夜、仙台は雪となりました。山宣は、中核となる活動家の検束で午後からの新党結成の支部代表者会議流会に抗議するために、その足で警察部長官舎に乗り込んだのです。新聞記者を同行して眼前に出現した山宣を見て動転した萬は、「演説会不許可。即時仙台からの退去」を告げるとともに警官隊を市公会堂に急行させました。
多田夫人が会場へ着くと公会堂は真っ暗、管理人は「演説会は中止と言われたので点灯しない」と言い張るなか、「届出も、会場費も払ってある」と粘り電灯のスイッチを入れさせたところ、会場内にはアゴ紐をかけた警官隊が陣取っていたが、場外にいた約五〇人の労働者、農民がいっせいに会場になだれこみました。すばやくスローガンが貼り出され、ねんねこ姿の多田夫人が開会宣言、ついで熱狂的歓声に迎えられて細迫兼光が登壇、開口一番「弁士中止」で演壇から引きづりおろされましたが、すぐに山宣が指揮者に抗議しつつ登壇、約10分演説したところでこれも「弁士中止」。聴衆総立ちで抗議したが全員場外へ押し出され、山宣らは仙台署に連行されたのです。残った聴衆は口々に「官憲横暴、労農新党万歳!」とさけび、結局、子どもを背負った多田夫人一人を残して全員が検束されてしまいました。
その夜、11時の東京行き夜行列車で強制退去を命じられた山宣と細迫は、署長室で予備検束者の即時釈放を要求し直談判、翌朝釈放を約束させました。当夜の留置場は、深夜まで労働歌が響きわたり、翌朝全員が釈放されたのです。そのあおりで翌夜の登米郡豊里村山宣演説会は農民組合員30人が検束され流会となりました。
この日、萬警察部長が山宣に言い放った「君達は労働者農民の利益を代表する。…だから君達が一回でも演説会を開き、或いは一言でも言葉を公の前に云うことは、すでにわれわれの敗北である。ゆえに演説会の開催をも許さないのである」主旨の発言が帝国議会議場で暴露され、望月内務大臣のしどろもどろの答弁となったのです。
山宣の「声は小さかった。言葉は短かった。…だがしかし、山宣の質問は見事に政府の肺腑をついた」のです(『全集』編集者の前書きから)。山宣の「物腰のやわらかなこと、これが代議士かと思うほどだった」と多田夫人はじめ宮城県の多くの活動家が戦後も長く尊敬の念をもって回想し語ってきたほどの強烈な印象を残したたたかいだったのです。
藤田廣登(伊藤千代子の会(在京)事務局)
〔資料提供―治安維持法国賠同盟宮城県本部「不屈」宮城版から、多田みどり、小田島森良、大沼耕治氏らの論考を参考にさせていただきました〕