004010_山宣と私
山本多年の和歌〔1〕─山本治子
2007年5月21日 16:04
山本宣治の母、山本たね(筆名・種子、のちに多年)は満九五歳で亡くなった(1869~1954。明治2年~昭和39年)。その生涯のくわしいことは省いて、ここでは多年が書きのこした和歌の主だった作品を抄出してその周辺をさぐってみたいと思う。
短冊が四列に並べられるぐらいで、深さ10センチ程の古いうるし塗りの箱が、花やしきに遺っている。表皮の黒いうるしがぼろぼろとこぼれはがれる古い箱である。多年の書いた短冊がざっと80枚ばかり。筆勢が気に入らないのかサインのないものもあるし、又書きつぶしを二枚丁寧に糊で張り合わせてその上に手習いめいて書いたのもある。いかにも節約が身に添っていた明治の女らしい。
短冊の外にも生半紙(きばんし)にこまかに書いたのも出て来た。作品数はだいたい四百五十首。そのうち、師の阪正臣(ばんまさおみ)氏に誉められた歌を短冊に書き改めたものや、私が重複して書きぬいたものもあるようで、約四百二十首ぐらいだろうか。作品順ははっきりとわからないが、「種子」のサインのあるのが初期の明治中期から大正年間で、「多年」とあるのは昭和になってからのものかと思われる。「種子」の時は男のように伸びやかな達筆で「多年」になると、小さくすくんだ字になっている。
(初春河)
流れゆく音もかすみにこもるなりいとどのどけき宇治の川水
春といふしるしもしるく見えそめて霞みわたれり宇治の長橋
うぐひすの声をも乗せてくだすなりのどかに見ゆる宇治の芝舟
宇治川の早瀬の波を花とみて来鳴くや岸のうぐひすの声
しらべの美しい気品のある歌。なかでも二首目「宇治の長橋」と「長」をつけたところが、「霞」とよく対応して早春の宇治のうす紫いろの景色がよく表れている。「芝舟」はこしらえ物の歌のように思われ勝ちだが、昔は晩秋から春にかけて幾艘も川上から流れて行ったことを私も覚えている。多年の見るもの、聞くものがたやすく歌になるような宇治の自然だった。「初春河」と題するこの一連は生半紙にこまやかに一行づつ書かれて十四首もあり、多年の熱のこもった勉強ぶりが伺はれる。
これらには私淑した阪正臣氏の添削の朱筆も少し入っていて一首ごとに赤い丸や、点々がついている。点の数の多い程、秀作だろう。ちなみに私がとりあげる歌は正臣氏の採点とは合致しない時もある。阪正臣氏(安政2年~昭和6年没)は宮中お歌所の寄人(よりうど)だった。多年はその教えにしたがって典型的な桂園派の風雅に徹した歌を作っている。それが時の風潮だった。
山本治子(山本宣治の長女・1996年3月5日没)