004010_山宣と私
山本多年の和歌〔3〕─山本治子
2007年5月21日 16:22
さて、多年は夫・亀松と京都京極で花かんざし屋を営みながら一人息子の宣治の体が弱いことに気をかけて宇治に小さな別荘を建てたのが明治29年ごろという。多年は生粋の京都人だったが静かな風雅なことにも心をひかれる面もあった。「商売をしていると人の顔ばかりざわざわと毎日見るのが厭になることがあった。それで宇治に来た」晩年云ったことを思ひ合わすと、何も息子本位ではなくて自分が宇治に来たかったのだろう。宇治に落ちついてからはやはり生活のこともあって明治35年ごろから湯どうふなどの簡単な手料理から始まりだんだんと料理旅館の体裁をとってゆく。
それというのはキリスト教会関係や歌友達など、亀松や多年に会いがてら汽車に乗って宇治に遊びに来る人達は一日がかりの大仕事だった。「まあゆっくりして行っとくれやす」。日が暮れると「お泊りやしたらは?」という事になる。京都の人は義理がたくて合理的だ。
「それでは余りお多年さんが気の毒」と、お金のことが出てきてそれがきっと料理旅館の始まりだったと思われる。
多年はむだな軽いおしゃべりは一切せず、大切なことだけを的確に云ったので何となく威厳があった。自分のことよりも人さまの話をよく聞いてあげるので訪ねてきた人は思うことを聞いてもらった嬉しさに晴ればれと帰ってゆく。後年私が「牧師さんのようだ」というと多年は「教会のつもりでこの商売をはじめた」と云った。
(ある友達より吉野の花見にゆかんといざなはれければ)
指折りて待つ日を遠み夜の夢さへ通ふみよしのの花
皆人のこころは花に先だてて乗る小ぐるまの軽げにも見ゆ
(吉野山のふもとにて)
咲きやいかに散りもやせむと麓路にこころ乱るるみよしのの里
(吉野神社に拝し参らせて)
史ふみに見しそのふるさとの偲ばれて花も露そふ心地こそすれ
(如意輪堂まで登りてやむなきことより、己のみ帰るとて)
ことの葉の花も匂へるわが友と別るる惜しきみよしのの山
(帰りてのち)
みよしのの花の盛りをみてしより心にかかる春の山嵐
これらの連作には、いつも冷静な多年が吉野の美しいさくらを見ての喜びぶりがよく伺はれる。
山本治子(山本宣治の長女・1996年3月5日没)