004010_山宣と私
山本多年の和歌〔5〕─山本治子
2007年5月21日 16:35
夫・亀松は、多年はもとより花やしきにいる親類縁者の娘たちが、本を読んだり裁縫したりする地味なもの堅い姿を厭がった。花札、トランプなどの遊び事をしたり、琴を弾いたり、華やかにおしゃべりするのを喜んだそうだ。ところが多年は心の奥こそ華手で、することも大胆な人だが、表面はいたってもの静だった。だから亀松に遠慮して、知的探究心は歌をつくることで満たしていたのだろう。そして又一番熱心に作歌した期間はだいたい花やしきの盛業のときと一致する。
それはどういうことか。明治後期から大正年間、花やしきには画家、作家、歌壇では師の正臣氏の他にもその頃の重鎮だった高崎正風、小出つばら、東久世通禧氏など大勢見えている。京都の女は趣味を趣味だけに終わらせない。多年も又「お客様に刺激されて」「お話に添えるように」と、もともと風雅にあこがれる心を営業の影に上手に活用したのではないだろうか。
(夕雪)
ひとすじの帯ともみえて宇治川の堤さむけき雪の夕ぐれ
(古寺時鳥)
入相の鐘にくれゆく山寺のおくつきどころ時鳥なく
(市)
浦々の幸をあつめておらぶ声にぎはしきかな河岸の魚市
原作は「魚河岸の市」だが「河岸の魚市」と添削されている。大変よい歌と思う。
(車)
時のまもいそしむ世とて小ぐるまのゆきかひ繁くなりまさるかな
現在にも通ふ点景だ。こうして正臣氏から出された、「橋上霧」「寄菊懐旧」「社頭花」などという題に素直にお行儀よく花鳥風月を歌ったものが多い中から、少しでも多年の人間性のにじみ出た作品もさがしてみよう。
いくたびもかたみの鏡うつしみむわが面ざしを母と思ひて
(虫干)
干す度に逢ふここちしぬ亡き母の花染ごろも色あせずして
(月清き夜、そぞろ歩きをして)
なれも又恋を語るか春の夜のいざよふ川の夜のささやき
花召せと都大路を呼びあるくひなの乙女のうるはしきかな
これは八瀬大原から出てきた花売女を詠んだらしく日本画を観るようだ。多年は宇治に住み着いても京都を都大路と美称してなつかしがっている。
(此の頃、都にのぼりつるに見るおみな(注、女のこと)美しければ)
住み慣れて姿のみかは心までひなの手ぶりと成りにけるかな
これは東京へ行ったときの感想か。めずらしく気弱になって反省している。ファッションに敏感な多年の一面が表れていて面白い。
山本治子(山本宣治の長女・1996年3月5日没)