004010_山宣と私
山本多年の和歌〔6〕─山本治子
2007年5月21日 16:41
ここで一寸(ちょっと)多年の姿かたちを書いてみる。多年にはHさんという幼な友達があった。京都の姉小路の呉服問屋の奥さんで、お茶、お花、和歌と同じ趣味なのでその晩年までよく宇治にも遊びに来られた。おそろしく話し好きな方でお茶席に同席すると「気が散ってお稽古がぜんぜん覚えられへん」と苦情をいう人もあった程だ。けれども多年は「たまに来はる人やがな」と上手にとりなして自分より早く亡くなられるまで仲良くした。
そのHさんは若い時から大変美しくて、多年が私に云った事には、「あまりべっぴんさんなので誰も友だちになってあげはらへん。それで私だけが一緒にいてあげたので喜んではった」そうである。「一緒に連れ立って歩くと『お小間使い』に見えて了うのが厭や、」という明治の女の心理が何ともおかしく、多年の大らかな真面目くさった理由づけもどうかと思う。
多年は五尺二寸位。昔の人にしては大柄で若い時は「杉」とあだ名された程すらりとしていた。全体として骨太だったが色が白くて、体にくらべると手や足が小さく、殊に足はてんそくでもしたように優雅であった。顔は役者のような大顔で少し釣り気味の二皮眼がぱっちりと光っていて、唇はぜんぜん紅もささないのにいつでも真赤だった。
私にもの覚えの付いた時はもう丸まげなどではなくて普通のひきつめ髪であったが、脳卒中の後遺症で手が不自由になっていたのでいつも母に結ってもらっていた。びんの所をすいて貰ふ時は目を細めながら気持ちよさそうにした。大きな大きな福耳が丸見えだった。
そして暑い日にはたらいで行水をした。台所のおばさんがお湯をはこんで来る。母が背中などを流す。年をとっても真白な肌で若い頃は随分豊かな胸だったろう。「楊貴妃さんの行水」と私は呼んでいた。だからHさんと連れ立って歩いてもまた別の美しさで人目に立つ二人ではなかっただろうか。
山本治子(山本宣治の長女・1996年3月5日没)