004010_山宣と私
山本多年の和歌〔7〕─山本治子
2007年5月21日 16:45
さて、昭和2年夏には夫・亀松がなくなり4年春に宣治が暗殺された。6年には阪正臣氏もなくなっている。相継ぐ悲しみに多年はどんなにか力を落としたことだろう。その年には朝日新聞社の人たちに誘われて中国旅行に出ている。それまでには旅の歌もよく作っているのに、中国の珍しい風物をみても何の感興も湧かなかったのか、ただの一首も遺していない所を思うとそれは凄まじい感傷旅行だったようだ。
それに桂園派の歌は、これは私の独断だけれども裕福で良識家で幸はせな人の「芸」である。人とは異なったものの見方や感じ方や、実生活の私的な感傷などを織りこむことは許されず(現に多年は夫や子の歌は一首も作っていない。)、あくまでも雪月花を美しく歌いあげるのが特色だから、宣治の死後、多年は混乱して了ったのだろう。そして又、華やかで自由な雰囲気で多年を刺激する人たちは来なくなった。その代わりに来る人達から「山宣の母」として尊敬や励ましこそ頂いても何となく厚い、かたい思想の壁のようなものに取り囲まれ、多年の心はかなしばりになって了って(この山宣研究の読者の方には申し訳ない推理だけれど)萎縮したのではないか。
それからは戦争だ。多年はだんだんと歌もできなくなってゆき昭和10年には軽い脳溢血を起こしている。それを養生しながら時々は短冊に昔の自信ある歌を又書いてみたり、新しいものも少しは作っているが、字はふるへてすくんでいるし、歌そのものも伸びやかな艶を失っている。
山本治子(山本宣治の長女・1996年3月5日没)