004010_山宣と私
山本多年の和歌〔8〕─山本治子
2007年5月21日 16:49
宣治の死を悼んでの歌をあげる。
かくすればかくなることと知りながら遂に逝きにし君をしぞ思ふ
宣治の母という看板のような歌だ。これは『山本宣治写真集』や、劇『嵐の中の赤いばら』にとりあげられた。息子のことならどうして「汝(なれ)」としなかったのか。そのことは多年は百も承知であえて「君」という言葉をつかったわけは、宣治は自分と対等であり、又それ以上に崇高な面影を見たからだろう。「汝」では多年だけの述懐に終わってしまう。でも「君」としたので、普遍性というか、ひろがりが出来て沢山の人、歌を作らない人達にもすらりと解る歌となった。この一首でさへ多年は宣治を人さまへ捧げている。
しら梅や汝なが逝きしより十三年
これは俳句で「汝」と歌っている
藤波の立かえり咲く花みれば植ゑにし人のいとど恋しき 多年 八十
下の句「植ゑにし人の亡きぞかなしき」とも書きのこしている。どちらが良いのかと多年自身迷っているようだ。八十歳とはっきり書いているから二十年経って「君」でもなく「なれ」でもなく「人」である。藤波の立返り咲く、と伝統的な歌言葉をとりいれて、心の立直りが見うけられる。なほこの藤の花は本当に宣治の手植えで、鉄棒の棚に成長して毎年見事な花房を垂らす。
さて昭和7年、与謝野寛、晶子夫妻が花やしきに来られた。そのとき、寛氏はこのように詠まれた。
宇治川のみぎはの木立秋に染み黄ばむ中より見ゆる石原
晶子氏は次のような歌を下さった。
加波義理濃古古路耳志無登伊布固等茂 与爾那貴比登越和州礼奴我多明
(川霧のこころに沁しむといふことも世になき人を忘れぬがため)
と、ようように読みがくだる。表装もすぐに成ったその掛軸は長いもので、二行にわけた歌文字は一字ずつ離れて晶子流にやはらかに美しい。晶子氏は多作家でよく旅もされた。請われたら気軽にお書きになったらしく、全国にその書が沢山遺っているときくから花やしきのこれもその中の一幅である。
「世になき人を忘れぬがため」王朝文学に造詣の深い方だから、宇治といえば宇治十帖のあはれを思い出しての歌なのだろうか。私はそうではないと思う。多年にその時の模様をはっきり聞いておかなかったことが一生の不覚だが、同時に家で作られた「定朝のみ仏のごと黄金をふたたび胸に塗るよしもがな」などの数首はみな晶子詩集に含まれているのに、この歌だけは載っていない。たしかに多年に下さった歌と聞いているからには「世になき人」とは、宣治のことを指していて多年をそれとなく慰めてくださったのだろうと確信する。
その時、多年は今を時めく晶子氏に勿論返歌などしていない。以前は高崎正風氏、小出つばら氏と自在に贈答をして楽しんでいたが、この時は一女将として慎みとわきまえに徹していることも、多年の京都風の性格がさわやかにあらわれている。
人の一生にはいろいろと起伏がある。多年は95歳まで気丈に生きたが、幸福だったのはやはり宣治が生存中で、作った歌の数も多くて充実していたのはその頃までだったと私は傷ましく思ったことである。
山本治子(山本宣治の長女・1996年3月5日没)
(この文章は『山宣研究』(京都・同志社山宣会発行)第七号(一九八二・三・五)に掲載されたものを転載したものである。)