002010_山宣研究
山宣デス・スケッチ(1)
2007年9月 5日 11:39
まえがき
1929年3月6日付けで描いた二人の山宣のデス・スケッチがあります。その一つ、大月源二の方は同年3月24日の無産者新聞に掲載されています。もう一人の橋浦泰雄(注1)が描いたデス・スケッチは50年後のその存在が分かり、更にその18年後に未完成ですが、大作(写真:198㎝×150㎝)の所在が分かりました。治安維持法下の圧政のもとで、大月源二、橋浦泰雄がどのようにして動き、苦労し、働いたのか…。このことを可能な限り検証し、世界に知らせることが現在の社会状況からして、如何に大切であるかを考えました。橋浦泰雄・赤志(あかし)親子を知る私がその足跡を調べてお伝えしたいと思います。
私と橋浦泰雄親子との関係
私の父の姉が本家に嫁ぎ、その伯父と親しくした橋浦泰雄は鳥取の水脈(みお)社で共にし、民族学で志を同じくした同郷人です。終戦近く、橋浦は一人息子の赤志を東京都杉並区西荻窪から鳥取県の私の本家に下宿させました。赤志は私と同じ旧制中学校に丸2年間通学した間柄です。
橋浦泰雄との出会いは数回あります。戦後は結婚した息子の代筆の年賀状を8回にわたって毎年2月に頂いています。息子の代筆とは結婚した妻の実家が川崎市で魚屋を営んでいたため、魚河岸・築地に行ったりして手伝っていた頃のことです。手紙やはがきによる人とのつながりを大事にする行いは、民俗学に深く傾倒していた橋浦にとって重要なことであり、民俗学者・柳田国男と「民族学研究所」を開設(1947年)したことからも分かります。
代筆はがきの1979年2月の年賀状に「山宣デスマスクスケッチ未だ送らず、横着故。」と書いてみえた。私は大月源二以外のデスマスクスケッチの存在を初めて知りました。山宣の死からざっと50年後、そして同年11月に橋浦泰雄は逝去されました。私は同年12月、献花に西荻窪を訪れました。このとき、橋浦家のご好意で山宣デスマスクスケッチを持ち帰り、宇治花やしきの山本家に届けたのです。スケッチを見た長女・治子さんは「アッ、パパや」と絶句したと当時を伝える新聞にも報道されています。
すでに公表されていた大槻源二のデスマスクスケッチはコンテで描かれています。描くには一番適切な位置から描いていますが、コンテでは線が太くどうしても詳細には表現しにくく、山宣が講演するときのようなキリッとした顔姿になってしまったのだろうと思われます。治子さんには、優しいお父さんの思い出が胸にしまい込まれていて橋浦泰雄の鉛筆で描いた優しいデスマスクスケッチの方がピッタリときたのでしょう。
山宣の遺体が帰ってきた時、治子さんは7歳。悲しんでいる大人の中で、辛い想い出しか残っていなかったのでしょう。「アッ、パパや」と叫んだ治子さんは50年ぶりに愛するお父さんの姿に接したのです。
西荻窪の家を1979年12月に訪ねた時はまだ前の住宅でしたが、その後、まもなく改築して建て替えられました。橋浦泰雄の遺品・書籍・資料一切は1つの部屋に集積されていました。西荻窪は東京大空襲で焼けなかったのです。
(注1)橋浦泰雄
明治21年(1888)、鳥取県岩井郡岩本で10人兄弟の6番目として生まれる。小学生時代の同級に後の社会主義者・松岡駒吉がいた。16歳で中学入学のころ、「平民新聞」に接し、その秋、幸徳秋水訳の「共産党宣言」に共鳴。21歳で上京。幸徳に会う。同年、白井喬二、野村愛生らと回顧誌「回覧」を創刊。23歳ころから郷土の新聞に短歌、新体詩などを発表し、同人誌「水脈(みお)」を発刊。27歳ころから絵をはじめる。有島武郎、藤森成吉、生田長江らと交流。大正10年(1921)、第2回メーデーで検挙される。この秋、文芸誌「壊人」を創刊。広辞苑執筆協力者。
大正14年(1925)、下北半島を訪れ、原始共産性の遺制に驚き、民俗学者・柳田国男を訪ねる。その後、民族学の論文も発表。プロ芸中央委員、全日本消費組合連盟、ナップなどの中央委員・委員長を歴任。昭和5年(1930)に日本共産党に入党。
主な著書に「日本民俗学より見たる家族制度の研究」「民族探訪」「日本の家族」「月ごとの祭」「民族学問答」「ふるさとの祭」「熊野太地浦捕鯨史」など多数。
昭和22年(1947)、柳田国男を中心とする民族学研究所を開設し、その代議員となる。昭和25(1950)、日本民俗学会で柳田、折口信夫とともに名誉会員に推される。
昭和54年(1979)10月没。享年91歳。青山の無名戦士の墓に埋葬される。