002010_山宣研究
山宣デス・スケッチ(2)
2007年9月 6日 12:43
大月源二とのかかわり―小樽美術館への協力―
大月源二が山宣デス・スケッチを橋浦泰雄とともに描いた時は25歳で、東京芸術学校を出たばかりでした。新宿淀橋辺りへ下宿を転居したすぐで、1階の部屋はナップ(全日本無産者芸術聯盟)の事務所でした。そのため、山宣虐殺の知らせが早く届いたのです。大月は橋浦とともに神田3丁目の光栄館に駆けつけました。その時の状況は橋浦泰雄が沼田秀郷(日本共産党顧問・画家)への返信で分かりました。
その文面を紹介すると「大山(郁夫)が所蔵だったという、山宣胸像篤示作というのは記憶にありません。山宣が凶刃に仆(たお)れた際、私はナップ事務所にいたので居合わせた大月源二とともに山宣の宿に駆けつけたのですが、まだ何人も来ておらず、私等が最初だと宿のものはいいました。宿の部屋は二階で、曲がり階段を上がると最初の部屋で、山宣は布団に仰向いて寝ており、顔には小さな布が被せてあるだけで、なんの手も加えてありませんでした。(以下中略)私は大月源二と相談して、直ちにデスマスクを鈴木賢治(彫刻家)にとらせようと決めましたが、鈴木不在の場合を案じて、念のために二人でスケッチブックに写生しました。(以下略)」
大月源二は小林多喜二と同学年であり、小樽中学校と小樽商業学校で学びました。二人は水彩画を共にして親交が厚く、上京後も帰省すれば訪れては交流を重ねました。とくに小林多喜二の文学の挿絵を描いていたこともあり、社会主義思想もお互いに持ち合い、相通じていたと思われます。
「画家・大月源二の世界」が大月書店から2004年12月に出版されました。生誕100年を記念して画展と共に出版を成功させています。その背景には小樽美術館の積極的な企画による世論の向上があります。2000年に入ってからは小樽美術館で「デスマスクスケッチ2点」と「告別(大月源二作)」を花やしきから貸し出しました。私も舞鶴港発の新日本海フェリーに乗船して小樽を訪ね、美術館を訪れました。大月源二の展覧会は盛大で多くの市民の共感を呼んでいました。
引き続いて04年10月、大月源二展実行委員会から再度「告別」貸出しの要請があり、再び貸し出しました。そんなことで大月源二に関わる出版された書物・資料も手に入り詳しく人物像を知ることとなりました。山宣のデスマスクスケッチを描いてすごく感じ、プロレタリアートの階級的意識が高まっていったのです。小林多喜二は1933年2月に殺されるが、1931年8月「都新聞」連載小説・「新女性気質」を書きその挿絵を大月が描き、その10月には日本共産党に入党し「赤旗」に漫画、カットを描いています。かくして成長していく大月源二を見守り、同じ会員として協力していく橋浦泰雄の姿から、現在の私たちが学ばなければならない大先輩の業績があります。