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山宣デス・スケッチ(3)

2007年9月11日 16:03

大月源二の人間的成長を見守り、画工界の統一を図った橋浦泰雄
 橋浦泰雄は、16歳年下で25歳の大月源二が山宣のデスマスク・スケッチを描いたという感動、そしてプロレタリアートとしての階級的意識の向上と成長を見守り続けたいと思っていたに違いないと思うのです。2人がデス・スケッチを描いた翌年、1930年に橋浦はデスマスクの大作(第1回に写真掲載)を描きましたが、プロレタリア美術展には発表しませんでした。「なぜ、発表しなかったのか」。この長年の疑問は50年の時を経た絵を見て、「これはあくまでデッサンで描いたものではないか」と思いいたりました。絵は書き損じたようなポスター8枚の裏紙を再利用しています。一方の大月源二は、「山宣デスマスク」「告別」とデスマスクスケッチから相次いで作品を発表しました。橋浦は大月を立てて支えたのではないか、と思うようになりました。
 橋浦は当時、分裂していた画工界を統一させ、1929年3月にプロレタリア美術家集団(ナップ)の中央執行委員長に選出されています。戦争へと向かう時代の中で、思想的にもしっかりした若い美術家たちを育てたい、そんなことを考えたのではないでしょうか。
 もうひとつ考えられることは、1929年11月に一人息子の赤志(あかし)が生まれたことだと思われます。41歳で授かった息子への喜びは大きかったのでしょう。多忙な息子の代筆をする、そんな家族への深い愛が作品を非公開のままにしたのかもしれません。
 私は未完のデスマスク・スケッチをもっと多くの人に見てほしい、戦争という時代に押しつぶされた山宣と同時代に生きた人々の生きた証(あかし)を見てほしいと思うのです。
 橋浦泰雄は山宣が虐殺された1929年3月以降、ナップの仕事もしながら柳田国男らと民間伝承の聞き取りに全国を回っています。同年5月には鳥取の文芸思潮講座に秋田雨雀(詩人)、生田春月(詩人)、尾崎翠(演劇の脚本作家)とともに講師として招かれています。7月には野村愛生(作家)の推薦で郷土雑誌「大因伯」の詩壇選者となっています。10月には「東筑摩郡の石像を探訪して」を「郷土」に発表しています。こうして東京と鳥取、全国を頻繁に行き来していたようです。和歌山の太子町には2年間滞在し、捕鯨史をしたためました。私への8通のハガキのうち、2通は太子町からきています。芸術を通じた独自の社会運動をあくまで追及した人でした。(山宣会顧問・蓮佛亨)

写真:橋浦康雄が描いた山宣のデス・スケッチ

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