002010_山宣研究
山宣デス・スケッチ(4)
2007年9月27日 12:14
戦前、治安維持法が緊急勅令により死刑・無期懲役が追加され、即日施行されたのは1928年6月29日でした。その翌年3月5日に山宣は殺され、同年4月16日には日本共産党員が339人も検挙、起訴されています。そして1931年9月18日には、中国の柳条湖の満鉄線路爆破事件を機に関東軍が軍事行動を開始、満州事変・15年戦争と戦争に突入していきました。虐殺された山宣が国会で追及していようとしていたのは、改悪された治安維持法についてでした。その内容が国会で発言されれば、記録として残り、国民に広がる可能性があったからです。そして、当時、苦労して山宣の志を伝えようと努力した若者たちがいたことを知ってほしいと思っています。
「山宣デスマスク・スケッチ」に関わる人は6人。まず、山宣が殺されたに日に駆けつけた2人、橋浦泰雄(41歳)と大月源治(25歳)、更に大月に多大な影響を与えた同郷・小樽の友人、小林多喜二(26歳)です。橋浦と大月は彫刻家・鈴木賢二にデスマスクを取る連絡が取れないかもしれないと、2人でスケッチを描きました。そして、デスマスク・スケッチは大月源二のみが公表しました。その後、大月は下宿を追われながらも描き上げたのが山宣の葬式を描いた「告別」(写真)です。この絵は当時、プロレタリア的絵画だと評価されました。
一方、当時の文学・芸術界には、造形美術家協会、全日本無産者芸術連盟、労農芸術家同盟など幾つもの会が多くの分野に分かれて活発に活動しており、それぞれが論評や批判をし合っていました。
日本共産党は1922年7月15日に非合法ながら成立しており、国民に影響を与え始めていました。蔵原惟人(27歳)、宮本顕治(20歳)は入党前でしたが、既に「いわゆるプロレタリア文芸運動の{混乱}について1927、6」、「無産階級芸術運動の新段階=芸術の大衆化と全左翼芸術家の統一戦線へ=1928、1」などの論評を開始しており、文化・芸術界を一つに統一させようと動いていました。
山宣が殺された1929年の10月に蔵原惟人は入党し、宮本賢治はその翌々年の5月に入党しました。蔵原惟人評論集7巻、宮本顕治文芸評論集3巻を読み通すと、文化、芸術界について蔵原が評論すると、宮本がそれを助けるかのように評論に意見し、積極面は評価し、誤りは正し、日本共産党の文化政策を作り上げていったのです。
この5氏に加えて1923年に創立した京都の日本共産党に当初から加わった谷口善太郎(30歳)は、山宣と協力して労働学校を創立し、その後も国会活動を通じて勇気と確信を与え続けました。6氏が互いに影響を与えながら日本の文化・芸術界のしっかりとした考え方の基礎を築き、山宣の遺志を継いで国民の自由と民主的権利を求めて、反戦の旗を掲げ続けたのです。(山宣会顧問・蓮佛亨)
※ 年齢は1929年当時
学生時代、山・宣さんのことを少し本で読みました。当時は、「現代農業問題研究会」(現農研)というのが京大・府大の学生を中心に農村調査や研究発表会・飲み会等をしていました。 いつか、誰かが山宣さんの名前入りの「湯飲みコップ」を売っていました。(「山宣さんを偲ぶ会」をするカンパ集め)
当時は、山宣さんの業績等、余り詳しいことは知りませんでした。命をかけて「戦争反対」と国会で発言されたり、右翼に殺害されたことは、ずっーと後に知りました。
谷・善さんは、大学時代に全共闘の暴力支配と闘い続けた真面目な学生達を暖かく励ましていただいた記憶がハッキリ残っています。
スケッチ画を見せていただき、これらの諸先輩のことを忘れてはならないと改めて思いました。また、同じような時代を繰り返してはならないとも強く思っているところです。