002010_山宣研究
治安維持法に対峙しつつ日本の文化政策の構築に貢献した人たち(1)
2008年7月19日 10:21
橋浦泰雄と大月源二たち
山宣のお通夜は東大・キリスト教青年会館にて行われ、告別式は青山葬儀場にて全国渡政・山宣労農葬として行われた。その時の「棺」を運ぶ様子の絵は、大月源二と矢部友衛の二人が描いている。画名は「告別」と「労働葬」である。神田の光栄舘で謀殺されて一番早く駆け付け、山宣のデスマスクを素描したのは橋浦泰雄と大月源二である。その時の事情の解明が、現代社会では非常に重要なこととして史実の裏付けに基づきつつ、検証されることが求められている。
橋浦泰雄の描いた「大作」=山宣のデスマスク=の表装をしっかりとさせ、貸出しても破れないように整え、「憲法九条の会」や「治安維持法賠償同盟の運動」に役立てたいと、今年1月9日に新潟の小林春規氏を訪れて表装するように注文した。自らも新潟を訪ね、タテ×ヨコ・寸法を確かめ、表装の納め具合の確認に行って来た。そのとき偶然にもう一つの「労働葬」を描いた画家・矢部友衛の[伝記]が小林さんの手元に二冊あり、一冊を譲り受けて来た。矢部さんの「姪」にあたる豊田さやか編著による「本」であるが、「労働葬」絵画の行方を探し求める手筈だったので大いに助かった。
治安維持法が悪法に転化(1928.6.29)された直後の時期の事情を、矢部友衛も含めた人たちが、どのように治安維持法に対峙しつつ、文化活動を進めたかを見ることが、いかに今日の日本国民にとって、文化政策を構築するうえで大切であったかを思い、今回の草稿をはじめた。
1918年に東京美術学校(東京芸大の前身)を卒業した矢部は、フランス・パリに留学してイギリス・イタリア・ドイツの各国を回り、西洋画を身に付けて帰国。日本に初めて立体派絵画を紹介し、神原泰や中川紀元たちとアバンギャルド美術運動を起こす。新しい時代へのいぶきを探求する画家、40人ばかりを指導しつつ、画壇に大きな影響を与えていた。
これで山宣に拘る4人の文化人の活動記録が揃ったのである。橋浦泰雄・大月源二・矢部友衛・小林多喜二4人の年譜を、年ごとに一覧表にしてクロス表を作成し、4人の動きを同時に並行して検討し、関連や評価・判断を試みた。歴史学の研究に使う方法ではどうなるのか知らないが、私の生まれる前の時期の事柄であり、4人の動き関係を正確に見ておいた方がよいと、この方法を試みた。
一覧表は橋浦泰雄の「五塵録」、「風風記」ほかを利用して作成した。大月源二は「大月源二の世界」ほかの年譜からである。矢部友衛は新潟から譲り受けた本「矢部友衛」により、小林多喜二は「前衛」の2008年5月号の不破論文によった。
(写真は橋浦泰雄が描いたデスマスクを表装したもの=08年6月1日、山宣生誕119年記念講演会)
今、深夜敏を聴きました。お尋ねします。私の伯父に当たる加藤亘(?)は、昭和8年頃、業平橋付近で「借地借家人組合」運動をしていたそうです。何回も拘束され、終戦の年の春出獄し、一時紺野ヨジロウ(後に共産党都委員長)さんの故郷である山形県にお世話になっていたそうです。家族は妻千代?娘メレイ・息子コウキ?(この人は後に○×省に入ったと風の便りに)がいた、という記憶があります。 私は自分の兄弟とも自ら疎遠になり、もう数十年行き来はありません。しかし、この人の生き方に私自身は非常に影響されたと感じておりました。今朝、ラジオ深夜便を聴き、急に伯父を思い出し、お尋ねしたくなりました。私は地域活動の後に、国民救援会でオルグをしていました(白鳥・松山・小松川事件など)。もし、加藤亘のことについて何かご存知か、当時の 借地借家人組合に手がかりになるような事をご存知でしたら教えていただきたくおもいます。お忙しい折、真に勝手な文を書きましたことを、心底よちお詫びいたします。よろしくお願いします。 鈴木房江