002010_山宣研究
治安維持法に対峙しつつ日本の文化政策の構築に貢献した人たち(2)
2008年7月30日 18:51
橋浦泰雄と大月源二、小林多喜二
橋浦泰雄が小樽の大月源二、小林多喜二を知ったのは、1925年頃だと思われる。橋浦は兄義雄の夫人が亡くなり、兄を助けるために兄の住む札幌に足を運び、北海道を旅しており、その過程で出会った様である。
大月は22年4月に東京美術学校に入学。18歳だった。級友には小磯良平、猪熊玄一郎などがいた。10月に叔父の家に下宿した。
小林は24年3月に小樽高商を卒業し、北海道拓殖銀行に就職。磯野小作争議、小樽港湾争議などを支援しつつ、第一回普通選挙には演説隊員に参加した。28年の「3・15」事件の模様を「戦旗」に同年11月、12月号に「1928年3月15日」として連載。当時、非合法で国民には知らされていなかった権力による日本共産党への弾圧を文学として発表し、党と共に名前を一挙に知らしめた。29年には「戦旗」の5、6月号に「蟹工船」を、中央公論11月号に「不在地主」を掲載している。11月には拓殖銀行を解雇され、翌30年3月に上京。28年11月26日から翌年3月まで東北から北海道を遊説しており、この時に山宣と小林が逢っていると「山宣」の経歴から推測されるのである。
橋浦は札幌と東京を往復しながら、28年3月、前衛芸術家同盟と日本プロレタリア芸術家聯盟が合同し、全日本無産者芸術家聯盟(ナップ)を結成、中央委員長となっている。28年1月に、蔵原惟人は「前衛」紙上で「無産階級芸術運動に新段階」という論文を発表している。当時まだ表立てない日本共産党の文化部を代表しての紙上提案であるが、橋浦泰雄はそのことを忠実に実行しているようである。橋浦は29年1月、日本プロレタリア美術家同盟(AR)の結成に参加、4月にP.P.に発展し、中央委員となっている。
ここで1930年3月30日に橋浦の記述した文章から、P.P.の第二回大会に於いて採択された同盟の「行動綱領」を引用したい。
=行動綱領=
わが同盟はプロレタリアートが美術に要求する宣伝煽動性の階級的役割を、その生産および発表の実践課程に於いて遂行しつつ、プロレタリア美術の確立を目的とする美術家の大衆的組織である。
Ⅰ 労働者農民の解放のための美術闘争
Ⅰ 言論、集会、出版、展覧、結社の自由獲得の闘争
Ⅰ 一切の反動美術並びにその機構の克服の闘争
Ⅰ プロレタリア美術運動の国際的結合の闘争
Ⅰ プロレタリア美術確立の闘争
これらは、移動展形態の展覧会を全国的に各地で催し、成功させて得た経験からつくりあげた行動綱領であった。
その後、大月源二は「告別」と共にコンテで描いた素描を1929年の第二回プロレタリア美術展に出展しているが、何故か橋浦泰雄は1997年に至るまで公表しなかった。その疑問解明にとりかかった。
最も最年長の橋浦泰雄は矢部友衛の4歳年上でもあり、地道な活動が柳田国男に信頼され、旅先ではその地域の生活と歴史を聴き取り、記録しつつ生活実態を把握し、民俗学の礎を積み上げていくという手法を作り上げ、旅という時間のかかる実践をした。
ここで、非合法であった日本共産党と表立って動いていた人たちとの関わりを知っていただくため、宮本顕治が20歳の時に書いた「『敗北』の文学」は1929年4月、総合雑誌「改造」の懸賞募集に応じて当選した。その2年前に自殺した芥川龍之介に関わって書いたものである。同年3月5日、山宣が殺され、8日に行われた東京大学の仏教青年会館での告別式に宮本顕治が出席している。
1928年の「3・15」、29年の「4・16」の日本共産党への一斉検挙で第二無産者新聞も弾圧つづきで出せず、変わって芸術運動の機関紙だった「戦旗」が日本共産党の合法的な文化・啓蒙活動の定期刊行物として位置付けられていた。1931年の春、日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)に宮本は加入している。以後、同盟に対してさかんに論評・批評を行っている。そして同年5月に手塚英孝と生江健次の紹介で日本共産党に入党している。橋浦泰雄の21歳年下であるが、7歳年上の蔵原惟人を支え、文化部面でも立派に役割を果たしている。
蔵原惟人は1902年生まれの大月源二の2歳年上である。東京府立1中から東京外国語学校、ロシア語学科を出て、革命後のソビエトに於ける長期滞在者としては草分けのひとりとしてソ連邦に入国している。商業新聞の特派員という資格によってである。そこで実地社会主義の建設過程に接してきた。1926年に帰国した蔵原は、ただちにプロレタリア文藝運動に参加し、革命運動に生涯を捧げることとなった。宮本の7歳年上ではあるが、名コンビであった。
6人の生年
橋浦泰雄 1888年
矢部友衛 1892年
蔵原惟人 1902年
小林多喜二 1903年
大槻源二 1904年
宮本顕治 1909年