006010_平和への軌跡
白銀に、花やしき 反戦・平和はみんなの願い
2008年10月 2日 17:22
小田切 明徳プロフィール:1944年4月16日、信州大学教育学部卒後、私立同志社中学校教諭を勤める。現在、同志社山宣会事務局長、宇治山宣会顧問。
義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである、
<マタイによる福音書5章>
はじめに
山宣は幼少の頃、父の亀松に花作りを教わりました。植木屋さんが着る法被をまとった宣治は「シオンの娘、語れかし、わが愛のきみを昼たたえ」と大きな声で讃美歌を歌いながら、園芸の仕事に勤しみました。
父・亀松は東京の神田新石町の奉公先の丁稚をしながら、耳学問で学んだ江戸から続く園芸術を見よう見まねで息子に教えます。その庭園が整ってくると彼らは東京向島の百花園を意識して「花やしき」と命名して花作りをしました。
亀松は「菊と朝顔は嫌い」でしたからそれを避けて植えました。桜、椿、梅、藤、紫陽花、木蓮などの花木や撫子、桔梗、葵、芥子の草花が咲きました。
東京から園芸見習を終えた宣治が戻る頃になると、パンジー、デージー、スイ―トピーなどの西洋の品種が並びます。<これはコスモス・ヒウリダース>との宣治の説明が続き、西洋の草花に囲まれて讃美歌が聞こえて来るような西洋絵画に見られるシーンそのものでした。頃は日露戦争の真っただ中でした。
亀松は大の内村鑑三贔屓でしたから、その思いを継いで「花を作って世の中を美しくしたい」と言う宣治の意志は赤い糸となって生涯を貫きました。カナダでの日本庭園作り、東京帝国大学時代にはG・ニコライ著の「戦争の生物学」の翻訳を決意、対支非干渉同盟の中国視察団団長(宇治署に拘束)、刺殺直前まで「戦争撲滅ために奮闘せよ」というスローガンを机の上に掲げて翻訳を続けましたが、残念な事に「戦争の生物学」の翻訳は完訳できませんでした。
さて、山宣譚の3部作の相互関係を書いておきます。来年、2009年は山本宣治の没後80年、生誕120年の節目の年にあたります。そこで山宣の顕彰や山宣研究に30年余り携わってきた私としてその間にお聞きした事を後進の方々に語っておく機会としました。1部は生い立ちの記(東京帝国大学卒業まで)、この聞き書きをまとめた物を2部としました。3部は「はんなりと性」と題して性教育のパイオニア山宣を執筆しています。
1部は山宣の生い立ちです。私が山宣を知ったのは西口克己の小説『山宣』(大阪山宣会が復刻版を印刷しました)とそれを映画化した『武器なき斗い』(山本薩夫監督)でした。この映画は安保闘争の昂揚期に作られ、多くの人々は山宣の人となりを知り、感動しました。西口は山宣の母・タネさんからの聞き取りを基に、感動的な小説を書き上げましたが、カナダ時代の記述には正確さが欠けていました。
その欠点を補ったのが山宣の土蔵に残された膨大な資料を10年の歳月をかけて、整理・分類して書きあげられた佐々木敏二の著作『山本宣治(上・下)』(不二出版からの復刻)でした。この段階を山宣研究の第2ステージと名づけました。佐々木の仕事は実証的で緻密な論述で、後述のように多方面から出されていた批判への対応を意識して書かれました。そのため山宣の生きた時代背景を織り交ぜての緻密な記述となり、難しいという感想もありましたが、山宣評伝の決定版です。
私は第2ステージで西口克己さんと出会い、佐々木さんや当時ご活躍中の山宣の同志であった住谷悦治同志社総長、語り部としての田村敬男、木村京太郎等の山宣と関係深い方々から様々なお話をお聞きしました。
私はこれらの2次、3次資料を集め編集して『山宣研究』(宇治山宣会発行・1号から15号)を発行しました。私は当時、山宣の母校・同志社に勤務しており、生物学の担当として教育内容の自主編成の取り組みや就職時の活動が中心で組合運動等にも関わっていてかなり多忙でした。この研究誌には校正ミスなどの不備があり、新聞学者の和田洋一さんからは「誤植が多く読む気にならない」と酷評もされました。
私は職場を辞めてから山宣の顕彰と啓発のセンターとなって活動している宇治山宣会に属して会の仲間とともに山宣資料館の資料の分類、研究の分野において微力を注ぎました。宇治山宣会では部内に調査委研究部が置かれ各種の研究会が組織され、その後発見された資料の蓄積とフィールド調査(小樽、東京、鳥取、上海、大阪・堺等)を試み、山宣の業績と我々に課せられた今日的課題を明らかにするための努力を続け、山宣研究は第3ステージに入りました。
(1)世界的な性科学者・性教育のパイオニア、(2)産児調節運動のリーダー:雑誌『産児調節評論』・『性と社会』の発行、(3)労働学校・「自由大学」「水平社」講座の講師活動、(4)反戦・平和活動の追求、(5)国民・庶民の政治家・代議士(労働運動、小作争議の支援者・旧労農党員の活動を経て、第1回普通選挙で京都第2区より当選。
これが1919年から約10年間の山宣の仕事です。(1)から(2)は山宣の専門家として性の啓発活動に当たりおおよそ7年間。残りの3年間は主として政治的活動でした。この「山宣譚の2部」は『反戦・平和はみんなの願い―山宣とその時代からの呼びかけ』としました。
「山宣の事を教えて頂けませんか」と紹介状も持たずに出かけた私を、既知の友人のように快くお迎え下さり、あれこれとお話し頂きました。山宣さんは皆から愛され惜しまれた人であったのだとつくづく思いました。私が山宣を知ってから半世紀近くなりその間に見聞きした事を次代にお伝えしたい。インタビューに応じてくれた方には深謝です。
上記の聖句(マタイ伝5章)のそれは内村鑑三編明治三十六年十月二十二日聖書研究社から発行された「小供の聖書」を亀松からもらった宣治は繰り返して覚えたのでしょう。
その原本:<平和を求るものは福(サイワイ)なり 其人は神の子と称えらる可ければなり>
この第2部は「同志社山宣関係資料目録」をまとめ、評伝「山本宣治」を書きあげた佐々木敏二さんに捧げます。