006010_平和への軌跡
【1】山宣の反戦・平和活動の軌跡
2008年10月 2日 18:07
東京での学生時代の歩みは、1部の生い立ちに詳しく述べましたのでそれに譲ります。山宣はカナダでの領事館から<日本に帰れば社会主義は棄て、まじめに勉強してほしい>と忠告され、<君の前途を惜しんでブラックリストから君の名前を抹殺し、本国へは報告しない>とたしなめられたことが頭にあり、東京帝国大学では新人会にも加わらずもっぱら勉学に集中しました。
日本の近代化の道筋と明治から大正にかけて反戦・平和を考える上で日清、日露の戦争は重要です。アジアを旅してこれまで権勢のある欧米の列強国に対してアジアの一国・日本が勝った事を評価する声が出されました。東南~北東アジアではその後に帝国日本は同じ黄色人を撃つために戦争をしかけましたが、その罪との真摯な向き合いが今日まで日本政府からは聞かれていません。ドイツと大きな違いです。戦に駆り出された日本の国民として許し難い厚顔無恥の自民党政府を恥とする所です。
宣治の生まれた年に帝国憲法が発布されました。その後ひき続き教育勅語がだされ、この路線が貫徹されていきましたが、キリスト教徒であった山宣ファミリーの一員の宣治は「汝殺す事無かれ」の反戦のメッセージを素直に受け活動して行きました。「近代化」を是認して「立身出世」を富国強兵に重ね、「故郷の歌」の「志を果たして何時の日にか帰らん」を皆の思いと錯覚したのです。誤解を恐れずに言えば「脱亜入欧」の福沢諭吉の「扇動」によって庶民までが踊らされていたと気が付くには時間が必要でした。
宣治が生まれてから日清、日露の両戦争を挟んで日本国内では、大逆事件に象徴されるように天皇制権力は国民の抵抗運動を圧殺し、対外的に「日韓併合」・大陸への侵略の道を突き進んでいきました。多くの国民はその流れに巻き込まれ、塗炭の苦しみを味わい不自由を強いられたのです。
でも山宣らのようにこれらの激流に抗い闘った少数者がおりました。1部で述べましたように山宣は東京帝国大学卒業して同志社大学予科講師、京大医学部講師(大津臨湖実験所勤務)として働き、性学研究・性教育のために東奔西走の日々を送りました。
1922年の春、サンガー女史の来日を機にした産児調節運動への参加とその啓発本を利用して労働組合活動に参加し、来日したアインシュタインに会いに行き、ニコライの反戦書「戦争の生物学」の推薦状を貰いました。やがて水平社運動、農民組合や労働組合へ足を運ぶ中で「象牙の塔」と言われていた大学・学界から飛び出して本格的に庶民の中に身を置く事になりました。その結果、24年京大講師辞任、26年京都学連事件で同志社大講師の辞職と弾圧を受けました。彼はそれに怯まずに労農党員として活動しました。27年4月衆議院京都5区補欠選挙立候補、28年代議士に当選と人民解放運動、政治活動に邁進することとなりました。