006010_平和への軌跡
【2】京都・福知山の演説会
2008年10月 8日 15:27
―猿は3尺しかとばなかった―
2008年2月、京都市長選が闘われた。「京都の刷新」を旗印に中村和男弁護士が前職の継承を掲げる自民・公明・民主のオール与党体制候補を相手にして闘う激烈な選挙でした。政策ビラ撒きはまさに雪の中をかき分けて進む状況でした。山宣選挙(1928年1月24日~2月20日)の時は冬でしたから、京都府下の田畑の中の雪をかき分けて、宣伝隊は進んだ事であったろう。この京都市長選挙は相手陣営を、951票にまで追い詰め、当選こそを逃したが政治的には勝利したと言えます。
さて、山宣に戻ろう。大阪山宣会の浜田紀男さんの企画により’08年3月1、2日に京都府下の三和荘での「山宣・映画と講演のつどい」に出かけました。山宣もたびたび訪れ、演説会が開かれた福知山近くでこの会には多数の参加がありました。
山宣の最後の演説は、「猿は3尺…」(労農党京都天田軍支部結党式へのメッセージ:山宣全集5巻収録)です。3月5日の東京西神田小学校での東京市会議員候補の中村高一への応援演説がまさに、最後となりましたが、その「猿…」と同じ内容でした。
山宣が死の直前の3月3日に福知山に出かけたのは理由があります。山宣は2月8日の衆議院予算委員会第2分科会で「拷問・不法監禁に対する質問」をしましたが、その際、福知山の『昭和魁新聞』経営者であった細見文治を不当逮捕、留置所での不当な対応を暴いたのでしたが、その事で細見に迷惑がかからなかったのかと心配でした。そこで、彼は多忙な日程を割いて「立錐の山の余地もない聴衆、取り巻く官憲の前での演説」を行い、宿舎の御霊会館では夜を徹して仲間と話しあいました。「明日は大阪の農民大会<作者の註書き:山宣ひとり孤塁を守る、と演説した全農2回大会>に出席する車中で、私は寝ればいい」(「細見文治の想い出」)と言ったそうです。山宣のやさしさと細見文治さんらの奮闘の様子は心温まるものがあります。文治さんはジャーナリストとしての活動から労農党に入り山宣選挙を闘い、後に安田徳太郎や飯田三美医師を招き大衆診療所を開設しました。
こうした闘いの歴史が脈々と続いた福知山での記念集会でした。準備された清水照子さんらの奮闘により多数の参加者があり、皆さんの力で福知山における山宣と彼と共に闘った仲間の歴史を顕彰する機運が起こるきっかけになればうれしいです。