006010_平和への軌跡
【3】ソウルと済州島等旅から学ぶ
2008年10月15日 11:31
韓国は地理的に日本に一番近いのにもっとも遠い国。これまで日本の長い植民地支配への贖罪意識や少し前までの軍事政権が続いたため、韓国には足が向きませんでした。でも行ってみれば食べ物の嗜好や生活習慣の共通項が多く、ハングルをしっかり身につければ一層友好関係が深まる予感を持ちました。
ソウルの安重根記念館、西大門獄舎、延世大学の尹東柱の記念館
尹東柱の記念館を訪ねたいと思いつつチャンスがなく、2007年の2泊3日の冬のツアーで実現しました。北海道に行く時間位でしょうか、ソウルにはすぐ着きました。街にハングルが溢れていますが、私にはいちばん親和的な所でした。日本の良きところ悪しきところが反映されている感じも持ちました。
安重根は伊藤博文を射殺したテロリストと日本では教えられましたが、ご当地では義士。記念館で生い立ちから始まり獄中で書いた達筆を幾本も見ました。学識豊かな父母の元に育ち、キリスト教に接近し伝道にも加わりましたが、おりしも日露戦争日本の不法侵略に抗して1909年冬に祖国と民族を救うために同志たちと断指血盟してその年の秋にハルビンの駅で伊藤を撃ったのです。彼は捕まり旅順の日本帝国主義の獄舎の中で遺言を残しています。その最後に執筆した「東洋平和論は処刑によりこの詳論の完成はされませんでしたが、今日的にも意義深いものと読めました。それには韓国、中国、日本を中心として今日的な課題に繋がる「東アジア共同体」構想の萌芽的見解が示されています。
次は西大門刑務所歴史館へ。雪の残る入り口近くで映画のロケーションがありスカート姿の女優さんは震えて出番を待っていました。ここではドイツ・ミュンヘンのナチスの獄や、ポーランドのアウシュビッツもそうでしたが、それらを想起しました。日本の侵略に異をとなえる者を捕らえ拷問・陵辱した歴史の証。その時、山本宣治の国でも同様に治安維持法が猛威を振っていました。これが安部首相(当時の首相)ら靖国派の言う「美しい国」の実態です。工作舎では、「2度とこうした非人間的なことはやめよう」のメッセージが流れており見学に訪れた学童たちが疑似体験を受けていました。
2泊3日の最終日。かねてから希望していた尹東柱の学んだ延世大学へガイドさん付きですが単独行動しました。大きなキャンパスに3万人の学生が学んでいるとの事。この朝は氷点下4度、ガイドの金さんの案内で往きはタクシーで構内の中程へ。76年に立てられた尹東柱の「1点の恥じることはない」のハングルの詩碑はすぐ分かりました。2階の展示室を訪れ訪問の証拠に紺谷延子さんの編集した冊子と私の山宣の本と記名を残しました。
この国でも同じように進学をめぐる競争や女子生徒の超ミニスカートも現れ、離婚も子への虐待もニュースになると言う。孝道(親孝行)の美学にも翳りがあるのでしょうか。でも孝道の骨格は揺ぎ無い雰囲気でした。2年間徴兵制がありこの間に「男道」を作られるのでしょうか。韓国社会も成熟が進み活力が落ちてきたようです。不均等発展と言えるのでしょうか。新幹線が半島の中心を走り韓国各地への旅が楽になったようです。金浦空港は今でも羽田との便が増えるそうですが仁川空港が主力で高速道路が首都への旅客を捌いていました。
「4・3事件」とは――済州島4・3事件の跡を訪ねる――
‘08年2月17日の「赤旗」日曜版に「済州島で衝撃」と題する高知県の岡崎かをりさんの投書が載っていました。ああ、私たちだけではないんだ、の思いをもちました。
‘08年4月27日のNHKのETV特集に「悲劇の島チェジュ」と題する番組に出会いましたが、在日韓国・朝鮮人の多い日本でもっとチェジュ・Juju島の事、朝鮮半島の歴史・文化と親しくなる必然性をここでも感じました。
関空からは2時間余りでこの済州島に着きました。先ず、この火山島の半日観光をして2日目が目的の「4・3事件」の跡地をめぐるオプションでした。「この火山島では石と風と女性が多い」とガイドさんが言う。1月の寒風は強く、冬の蜜柑(名産)などの農作業は辛いのならばホカロン(携帯用懐炉)を送ろうと帰国してから宅配便へと準備してその窓口に行くと<これは送れない>と言われ無念です。
2日目、目的のオプションで島の南西のモスルボに行きました。ここには旧日本軍の「神風の飛行機の格納庫」(写真)がいくつも見られました。そこはジャガイモ畑でしたがその中に「神風の格納庫」はいくつもあり驚きでした。
さて、「4・3事件」の虐殺の場です。その事件というのは1948年4月3日午前1時頃おきました。300人ほどの武装隊が当時の米軍軍政が推進する単独選挙への反撃で島の警察署や右翼宅や要人を襲った事が端緒となりました。10月からこの掃討作戦は49年の3月までが本格的に実施され最終的には約3万人が犠牲(54年まで)になり島の1割以上の人が殺されました。そこの村は廃墟化して誰も住んでいませんでした。この多重の苦難の歴史が刻まれた所に07年末に慰霊の塔が建てられました。300人以上の犠牲者の名前のあるプレートに我々参加者は額ずきました。
「4・3事件」の跡地の見学が目的でしたが、朝鮮・中国を射程にした神風・回天基地すなわち日帝侵略戦争のKeystone・Jujuでは、日本の加害責任を意識せざるを得なくなりました。
この旅のツーリストの準備してくれた資料「朝鮮日報」の切り抜きコピーにノムヒョン前大統領による事件発生から55年目に正式な謝罪・犠牲者への追悼があった事を知りました。韓国政府の負の遺産に真摯に向き合う姿勢は立派です。先の選挙で別な大統領に代わりましたが日本は世襲制の天皇が国の代表であり、アジアの隣国を旅する度に日本の国の後進性を恥に思う。韓国人民はその後にもアメリカのBSE問題に対する大規模な抗議行動を起こしている事に敬意を表します。
格納庫があった畑の近くには平和博物館がありました。館長の李英根さんはその日に拾い集めたと日本帝国軍の砲弾2個を我々に示してくれ<戦争には、勝者も敗者もいない。皆被害者だ>と語りました。
続いての見学は松岳山海岸の「チャングムの誓い」のロケ地が行われた所。あの映画の終わり近くにで鍼を使った無痛分娩・出産シーンがありました。その撮影がこの洞窟の1つにありました。こうした洞が十数ありましたがこれが回天の出撃基地でした。チャングム映画の監督はこの事を知って撮ったのでしょう。これらの「ヨカレン基地」は朝鮮・中国への出撃の陣地となっていました。この島はまさに「衝撃の場所」でした。4・3事件に続き起きた朝鮮戦争で「冷戦体制化」に組み込まれ砲火の連続となったのです。廃墟と化したその地域には村人の姿はなくアカと呼ばれ虐殺された無辜の民人達、その恐ろしさに村人は今なおここに住みたくないようでした。
済州島は韓国のカップルがハネムーンで訪れる人気の地であり多神教由来の文化・歴史は私たちになじみやすく、土産にはトルハルバン(石の守護神像)を思わず手にしました。この島の人々はやさしく観光の島にふさわしい、私たちのガイドさんは美人のヨンエ(なんとチャングムの俳優と同じ名前だ)さんは我々の要望を聞いてくれました。この3月の手紙では「今年、4・3事件の60周年で、日本のあちこちから興味を持っている方々が済州島にきます。(中略)日本にも平和のために努力している人が沢山いることを韓国の人もわかって、みんなが協力していくべきだと思っています」と。
この前年のソウルへの初めて旅と今回とで街並みやふれるものもやさしくフレンドリーな人々でほっとする旅でした。六千年の歴史を持ち日本に多大な影響を与えてくれた最も隣国のこの半島には中々足が向かなかったことを考えさせられました。