006010_平和への軌跡
【4】山宣の朝鮮人民へのスタンス
2008年10月23日 14:56
山宣の投稿した「学潮」誌
紺谷延子さんに「セッピョル」誌を見せて頂き尹東柱(ユン・ドンジュ)顕彰への並々ならぬ熱意とそのご努力に接しました。そこで、山宣記念資料館に保存されている関連資料の紹介によって、彼女とその活動への賛意とさせて頂きます。
私が尹東柱とその名前、活動の概略を知ったのは同志社礼拝堂の東にある彼の詩碑を建てる動きが始まった頃でした。その時、私は同志社中学校の人権教育委員会のメンバーでした。中学生には尹東柱の詩碑に向かって立ち、我々日本が隣人に如何に恥ずべき扱いをしてきたのかをそこから感じてほしいと語りました。この碑と共に深草・第15師団跡、耳塚、岡崎水平社発祥の碑の見学を中心としたフィールドワークを人権教育の課題としての中学生とともに学んだのでした。
ところで、戦前の同志社にはかなり多くの朝鮮、台湾、中国大陸からの留学生が学んでいました。それは「まだ同志社には自由が息づいていた」(坂口直樹著『戦前同志社の台湾留学生』白帝社)ためでしょう。同志社大学には463人のうち70%の325人、同社中学には248人(30%)の朝鮮留学生が来ていたと言う(詳しくは前掲坂口著参照)。キリスト教と自由な学風に憧れてやってきた尹東柱らを締め上げたのは絶対主義的天皇制の体制即ち山宣が死を賭して闘った治安維持法でした。山宣の朝鮮認識はカナダで得ました。
◎山宣の「日韓併合」への反応は(1910:Aug. 29. Mon. ”Korea is annexed to Japan at last. It is proclaimed on this very day.”)
(朝鮮が日本に併合させられた日に公布された)
ガーデナーを夢見てのカナダのヴァンクーヴァーでの苦学生の後半に、彼はブリタニアン高校に入学します。上記の1文は彼の入学式を綴った英文日記の最後の部分にあります。
その年8月22日、厳戒態勢下で「韓国併合条約の調印式」がでっちあげられ以後、日本は二次世界大戦敗北の1945年までの36年間の歳月、朝鮮半島を支配・収奪を続けました。日清戦争、日露戦争の延長上にある日本の大国主義的拡張策はやがて朝鮮半島のみならず中国そしてアジア大陸へとその野望を広げて行きました。日本人の多くはこの併合ニュースに酔いしれ祝賀の提灯行列に加わりましたが、山宣はこうした大陸への侵略政策に批判的でした。
後年、山宣は同志社大講師時代に、「或画の話」と題するエッセイを書いています。これは朝鮮留学学生組織の京都学友会から依頼されて、彼らの会誌『学潮』創刊号(1926年)への寄稿文でした。ある画とは船倉でオールを漕ぐ虐げられた奴隷群像を描いたものです。ベンハーの映画の物語に出てくるような甲板下で鎖に繋がれ、鞭打たれながら必死でオールを握りひたすら漕ぐ様子を描写されたその「或る画」を、ヘンリーはカナダの教会で見ました。この画の回想を通して朝鮮人のおかれた状況を直視し、朝鮮苦学生への連帯のメッセージとしたのです。このエッセイは「山本宣治全集」第3巻に収録されています。この執筆の動機は「朝鮮の青年が近頃厨川白村の『現代の恋愛観』を愛読する事を聞いて思ひ出した」からであり、当時の朝鮮の若者たちが「ラブ・イズ・ベスト」と白村の本に熱をあげている現状に対して、彼はそんな事でよいのかと警鐘を鳴らし、旧約聖書の「虐げられたものの涙流るる、そを拭うものあらざるなり」を引用しました。
「今は諦めの悲鳴を漏らしている時ではない。勿論、性欲の濫費で政欲の鬱憤を晴らしている時ではない。イザヤの奇跡の到来を告げているのではなく、歴史の環の容赦ない回転を示しているのだから」
このハングルの雑誌への日本語寄稿文は山宣と同志社同僚講師であった住谷悦治の2人だけでした。山宣のメッセージの末尾は聖書のイザヤ書7章の引用でした。
「ああ、多くの民はなり どよめけり、海のなりどよめく如く彼らもなお、どよめけり」
この「学潮」誌は本文がハングルと漢字、平仮名混ざりの雑誌で、創刊号のみで終わった様です。この貴重な文献は韓国では国会図書館に1冊のみ現存するだけのようです。山宣はここへ原稿を寄せただけでなく、巻末に主幹雑誌「性と社会」の広告を出しています。原稿と共に財政的援助もしていたのでした。
小泉元首相は靖国神社訪問がお好きでした。これによってアジア各地の人々から大きな抗議を受けました。これは日本の権力者が過去の侵略戦争への無反省、頬被りで乗り切ってきた無責任さからくるもので、批判されるのは当然だと言えます。脱亜米追従外交が極まって険悪な状況さえ生まれています。中国や朝鮮問題について我々日本人が真摯に考える機会が少なかった事を今、反省すべきでしょう。私自身の事でいえば、例えば英語、ロシア語等を学なぼうとしましたが学び易い語であるハングルや中国語には見向きもしてきませんでした。前からアリランやイムジン川の歌を歌ってきましたが、韓国・朝鮮の文化や歴史を堀下げた学習をしてきたとはとても言えません。
国内で生活する多くの在日朝鮮人の抱える課題、北朝鮮の拉致問題等々が複雑に絡み合いあっています。「冬ソナ」以来の韓流ブームが一過性で終わることなく友好関係が深化・発展してする事を望みます。それには多くの尹東柱のように帝国日本の侵略や日本国弾圧された治安維持法によって奪われた犠牲者名誉と尊厳が回復されるべきでしょう。
「族譜」観劇で感激(08年6月、京都伏見呉竹センターにて)
この原稿を書いている最中に原作梶山季之・ジェームス三木脚本・演出の「族譜」の上演を見る機会がありました。
その「あらすじ」です。日本政府の中国大陸侵略の一環で朝鮮における「創氏改名」政策を進める日本軍、親日地主のソル・ヂニョウンは日本軍に二千石の米を献納してきたが、その改名策動には応ぜず七百年にわたっての受け継いできた族譜を見せました。それに対して日本軍はソルの家族を巻き込んでの陰湿な攻撃を仕掛けて植民地政策を貫徹していきました。
劇を行ったのは「青年劇場」の舞台でした。700年も受け継がれてきた「族譜」の重さを知っていたら簡単には創氏改名を要求はできないぞ、の思いが率直なところです。
この経緯を踏まえ日韓(日朝)の関係を考えますと、日韓併合からではなく豊臣時代の「朝鮮征伐」まで視野に入れること、京都の七条、国立博物館の近くにある耳塚の存在をも忘れていました。江戸時代の朝鮮通信使の存在は知っていても朝鮮側からの視点は考えてもみませんでした。この観劇は今後の友好・交流の際に参考になりました。この劇を韓国で上演したらどんな反応があるのかという思いがよぎりました。
この項の最後に宇治出身の中西伊之助にも触れておきましょう。中西は1887年、京都府久世郡槇島(宇治市の隣)に生まれ『赫土に芽ぐむもの』、『農夫喜兵衛の死』等の創作活動や労働農民運動の指導者として活動し、ジャーナリストとして20代に朝鮮に「平城」渡り「平城日々新聞」の記者となり、朝鮮民衆への共感の思いから日本企業や日本政府の植民地支配への批判記事を書き、新聞発行停止・投獄させられました。
中西は戦後、日本共産党衆議院議員を2期務め1958年藤沢市で死去しました。宇治では宇治山宣会の活動が墓前祭を中心にして続けてきており、平和と民主主義を守り発展させる活動に大きく寄与しております。ユン・ドンジュの顕彰の活動やこの中西伊之助の顕彰運動(代表:立命館大学政策科学部教授勝村誠氏)も粘り強く続けられています。
韓国から離れますがカンボジア・泰緬鉄道への旅の事です。これは「富士ツーリスト友の会」の07年秋の企画でした。アンコールワットはぜひとも訪れたい所でした。この遺跡についてここでは詳細を省きます。ポルポト軍の虐殺の傷口がいまだに癒されていない国では地雷がまだ埋まっていると言う。だから観光ルートを逸れて奥地に入らないでほしいとの注意がありました。
泰緬鉄道は映画「戦場にかける橋」で知っていたのですが、その内容を忘れていました。旅に出かける前、ビデオショップで借りてそれを見ました。ここでも日本軍の凶暴さが浮き彫りになるようにハリウッド映画は仕立てられていたのですが、行ってみての印象は英米軍の被害だけでなくアジアの人々を数多く殺戮したことに愕然としました。クワイヤー・マーチによる行進は有名なシーンです。クワイ川に「かけた橋」を列車で渡るツアーのために多くの観光客はバスでその地に出かけます。結果ここまでも日本軍は戦争を拡大し現地の人々へ多大な迷惑をかけたのです。気が滅入りました。