006010_平和への軌跡
【6】堺の与謝野晶子と山宣
2008年11月19日 13:20
2007年9月30日に、大阪山宣会(宮崎守正会長、浜田紀男事務局長)が呼びかけての「大阪の山宣を歩く」企画が行われました。浜田さんはシナリオライターとして映画の情報に詳しく「冬ソナ・ブーム」の時には、その解説をして日韓の交流のために尽力し、松野迅さんのヴァイオリン・コンサートの企画・推進者等多面的な活躍をされています。山宣研究では、退職金をつぎ込んでの西口克己著『山宣』の復刻、ご自身の出身職場との関わりでの山宣の『電車ストライキ』復刻・増補版を出す取り組みや山宣「最後の1週間」を解明する取り組み等と精力的です。
大阪の山宣と言えば、誰でもが先ず頭に浮かべるのは1929年3月4日の天王寺公会堂の第2回全国農民組合大会での「山宣ひとり孤塁を守る・・」の演説です。それに労働学校の講師としての活動があり、山宣は1924年1月20日から始まる第5期で「生物学」の講座を担当しました(場所は安治川教会)。
そして今回の最終地は、大阪の堺市。なぜ、晶子と山宣か、山宣が晶子に関心を寄せたのは、カナダから帰国して同志社普通学校に入学した頃でした。1部で述べたように、カナダの「アーメン党」の友人らの要請で、カナダの邦人向けの「加奈陀新報」に「晩香波の友へ」の連載をしました。その親友の麻田から彼女らの情報(雑誌など)を送って欲しいと言われていました。「新しい女」としての青踏社のその新聞連載では平塚雷鳥をあげていますが、彼女らに関心を寄せていたのです。巷で与謝野晶子は「五色の酒」を飲む人々と揶揄されていましたが、宣治は「婦人の覚醒」の必要性を論じていました。
さて、07年9月30日、「大阪の山宣の足跡を辿るツアー」の集合地は大阪市中央公会堂で30余人の参加(バス1台分で締切)がありました。安治川教会の後では、「この場所がそんな歴史的な意味ある所だと知れてうれしい」と現在のお住まいの方から、茶菓の差し入れを受ける歓迎でうれしい出会いがありました。大阪は福島署の黒田保九二、野田醤油争議跡とか気になる所が多々ありましたが、最後は堺へ。
そこで晶子ゆかりのモニュメントを見た後、堺の名物の「腰のないそば」を頂き、会場の「創造空間BOX1-6」で、「与謝野晶子と山宣」と題した記念講演を入江春行さんから聞きました。
晶子は駿河屋近くの寺の息子の鉄南宛に有名な次の歌を詠んでいます。
「やわ肌の熱き血潮に触れも見で 寂しからずや道を説く君」
鉄幹に会う前の晶子です。彼女は日露戦争勃発時に「君死に給ふことなかれ」と詠い、「青踏」に参加し「山の動く日来る」と言う社会的発言をしていきました。「五色の酒を飲む」女とマスコミからの揶揄がありましたが、山宣は「婦人の覚醒」に期待して彼女らの動向について冷静な見方をしておりました。山宣の政治進出や白色テロによる刺殺の報道に接し、晶子は山宣を評して、「現在の代議士の中で最も純潔な、最も無欲な、かつ最も民衆的であったこと、突如として氏を失ったことは日本人の大きな損失である」との晶子の言葉を入江氏から紹介頂きました。