006010_平和への軌跡
【7】小説家・西口克己と選挙事務所
2008年11月26日 17:25
3月15日は共産党員作家・西口克己さんのご命日です。西口文学顕彰事業委員会が発足して顕彰活動が進められていますが、その1つとして西口さんの最初の選挙事務所はどこかとなり、探しました。彼のパートナー・のぞみさんから「西口の事務所も最初は法性寺でしたよ」と教えられました。まさに山宣の選挙事務所と同じでした。
山宣の労農党京都府本部の置かれていた所は東大手町766番地です。暗黒政治下の第1回普通選挙(女性の選挙権のない)で山宣が当選したのは、その前年(1927年春)の衆議院京都第5区の補欠選挙の教訓を生かしたからでした。この選挙は旧選挙法で行われました。農民が自らの闘いとして経験した選挙戦であり、「労農党初陣の闘い」としてその創意工夫がなされました。それが基になって第1回普通選挙で、過酷な選挙干渉を戦いぬき堂々と当選しました。
1928年1月24日選対会議(2区選挙事務長、半谷玉三:本部伏見法性寺)、与党の政友会は磯部清吉と長田桃蔵、民政党は1人に絞り川崎安之助でした、後は他2人の計6人が立候補しました。この選挙戦は当時の弁士隊長の田村敬男から熱っぽく語られました。
「南桑田郡千代川村では山宣の候補者カーがパンクしました。そのため田村は山宣が来るまでの5時間にわたり、<資本主義のからくり>を述べたそうです。
また別の時(投票日直前の2月18日の宇治)では、田村の前の2、3人の弁士が「弁士中止」を食らい、山宣が来るまでなんとか間を持たすために、田村は「演壇に掲げられた19項目の選挙スローガン」を読み、それにコメントを付け、「弁士若き故激しい言辞を弄するかもしれないので、その時は一刀両断のもとで中止でなく<注意>で反省の機会を与えられたい」として続けたと言う。いわゆる、飴(買収)と鞭(弾圧)のなかで、とても公正な選挙とは無縁なものでした。
結果は、14,411票(山宣)、21,750(川崎)14,901(磯部)12,147(長田桃三) でした。
この票と5カ月前の府会議員選挙の労農党票で比べますと、久世郡(坂本兵蔵)や相楽郡(堀芳次郎)では、地本候補の倍近く集めています。いわゆる山宣の個人票によるものでした。
さて、その事務所の置かれた寺は日蓮宗の法性寺ですが、地図で見ても分からず、交番でも聞きました。古い住宅地図の調べに地元図書館へも足を運びましたが、分からないのです。現在の東大手町には見当たりません。法性寺をインターネットで検索すると、ヒットしたのは東山・本町筋の浄土宗(10世紀の藤原忠平の創設した寺で有名)でした。近くの交番や伏見の選挙本部の探索も80年の星霜を降るとこれまた大変でした。
標記のお寺の766番地は伏見の繁華街の中心部です。ここもスプロール化の波を受けて、老舗が郊外の量販店の進出によって空洞化しています。今から30年前に無念にも廃寺と追い込まれ、そこは衣料品店、進学塾や飲み屋となっていました。地域の古くからの活動家の坂尾さんのアドヴァイスがあり、近くの日蓮宗のお寺に消息を聞いてやっと見つかりました。
戦後、作家・西口克己はこの寺に本部を置き市会議員に当選し、だいぶ年月が飛びますが、その後の衆議院・小選挙区で寺前巌もここを地盤にして勝ち抜きました。こうして、「日本の夜明けは京都から」の革命的伝説が生きている街です。
図のように、お寺の参道に当る所は、幅2メートルほどの小路で両側には衣料店、進学塾、飲み屋などがあり、突き当り左側に墓地があったと言われています。マンションを超えて裏の小路の右奥に当時の寺の唯一の証拠となる毘沙門さんが奉られていました。この寺は廃寺になり、同じ日蓮宗の墨染(ぼくせん)寺に毘沙門は引き取られていました。
先述のように法性寺をインターネットで検索しますと、京都市内には10以上の同名のお寺があり、追跡途中で混乱しました。私は山宣の「性」を研究していますから、法性寺はそれにふさわしい、山宣らしい用語と思っておりましたが、法性は仏教用語では普遍的な文字のようでした。
<地図と写真>
作家西口は廓に続き旺盛な執筆活動と共産党議員としてニ足のわらじを履いての活動をされました。小説『山宣』は、山宣を広く啓発する本として大変大きな役割を持ちました。そういう私も西口小説と映画「武器なき斗い」で山宣を知ることになりました。小説「山宣」は谷口善太郎さんが書かれるはずであったそうです。山宣と谷善の関係は山宣が労働学校の講師の時の学校の主事でした。このときの有名なエピソードがあります。少し長いが引用します。
「大正13年末から私が主事となったんですが、その当時の山宣京都労働学校の校長としてまったく献身的にやっていました。単に校長、講師としてだけでなく、金は出してくれる、生徒の世話をしてくれる、そしてわれわれ労働者の思想を変革する上であらゆることをやってくれました。山宣は、労働学校は労働組合に入ってまだ間もない労働者や、未組織の労働者の来るところだから、その思想変革には最初に1つドカンとやる必要がという考えをもっていました。
あるとき、君たちのうちだれか精虫を持ってこいという。どんな若い労働者でもこういわれてたじたじしないものはない。みんな驚いいたが勇敢なのがいて精虫を持ってくる。
するとそれを顕微鏡で見せた。無数の精虫が顕微鏡の上で動いている。いや驚きましたねえ。これがもし卵子に会えば1ぴき1匹が人間になるんだというんだな、山本君は。そうしておいて学生に『センチになるな』という。誰だって気が変になるのはあたりまえです。次の週には夜、花山の天文台へ連れて行きました。そして望遠鏡をのぞかせました。私は初めてあんな輪のあるでっかい土星を見ました。そして彼はニタニタしながら『センチになったらあかんでえ』、みんなかわるがわる望遠鏡をのぞきこんで黙りこくっててしまいました。1滴2億の精虫と大宇宙・・人生って何だろう、と考えだしたんです。山宣は『生物学的人間の範囲の思考ではダメな事はわかっただろう。歴史を作ることに生きがいがあるんだよ』と学生に話した」
もう1つは、山宣が労農党からの立候補を勧められた時、その辞退を考えていました。
「大体ここにいる連中が僕を担ぎあげて代議士にしようとするのは実にけしからん。僕は生物学の専門家として労働農民党に参加しているので、代議士になるなどは僕のプログラムには絶対にないのだ」と断ったのに対して谷善は地下の共産党としての決定を伝える役割であった、山宣は<藪をつついて蛇だ、うーん>と唸り、<しょうがないなー>といって引き受けました。このように山宣と谷善は同志としての強い絆がありました。だから、谷口は、宣の生涯を書く予定でしたが、西口が代わって書きました。谷善は1931年8月、須井一のペンネームで『歌声』という題名のシナリオを書いていました(『経済往来』の夏季増大号)。谷口は執筆禁止を受けたため須井一を使い、「綿」、「清水焼風景」等を書いた。この「歌声」もいっぱいの××(伏せ字)が使われていました。<「山宣研究」4号収録>