006010_平和への軌跡
【8】山宣とアインシュタインの会見・・・国際物理年とアインシュタイン
2008年12月 5日 10:49
2005年は国際物理年でした。20世紀を代表する物理学者アルベルト・アインシュタイン(1879~1955、以下、ア教授と略す)が光量子論(ノーベル賞論文)、ブラウン運動(博士号)、特殊相対性理論の構築(「物理学年報」に同年6月30日受理)などの大きな成果をあげ、物理学の発展上画期を成した「奇跡の年」から数えて百年にあたるからです。20世紀初頭から戦争と科学とをめぐって科学者の社会的役割が鋭く問われるようになります。1922年初冬に来日したア教授と山本宣治との会談を紹介し、このテーマを考えてみたい。
当時、山宣は新進の動物学者・性科学者であり、同年春に来日して日本の産児調節運動に大きな影響を及ぼしたM.サンガーの通訳、彼女の冊子・『山峨女史家族制限法批判』を翻訳・出版し、「人生生物学」と題する日本初の本格的性教育を開始しました。
「戦争の生物学」は東京帝国大学中に文豪ロマン・ロランの序文を持つドイツの反戦生物学者G.F.ニコライの「戦争の生物学」の英訳本を読み感激して、ドイツ語正版を取り寄せ翻訳していました(『山本宣治全集』第4巻)。
著者・ニコライはア教授やロランらと連絡して第1次世界大戦勃発時に反戦活動をしたため捕まり、獄中で「戦争撲滅」のために同書を執筆しました。山宣はこの普及こそニコライのいう戦争抑止力になるのだと、来日したア教授の推薦文を貰おうと滞在先の都ホテルに出向きました。
ア教授からは専門外の要請の推薦状は書かないと断られますが、山宣はひたすら「平和運動の為と肉迫」すると教授の表情が変わり、「戦争は無意味であり、而してその戦争を防止するための或る国際的組織が必要であるという信念を普及することが、今日の政治的著述の最も重大な任務である」の推奨文を得ました。
帰ろうとする山宣は、ア教授から「将来の平和運動の知識人のあり方」について質問が来ました。ア教授は日本の国情については無知であると断った上で、その担い手の知識階級への働きかけが先決だとしたが、山宣は「実行力に富み確固たる自信を有する労働団体に対して必要な知識の供給」が急務だと応えました(詳しくは「山本宣治全集」5巻の「卑怯無為なる自称知識階級~ア教授の問いに対する私の答」)。
このア教授の積極面はやがて1920年の国際連盟成立時に作られた知的協力の委員会(ユネスコの前身)にマリー・キュリーらと参加し、永久平和の理想を追求する運動にかかわることになります。
1933年、彼はナチスに追われた亡命先のアメリカで大統領宛の原爆開発を促す手紙への署名する誤りを犯し、ロランからその「精神の弱さ」を批判されますが、それを山宣は見抜いていたのでした。他方、山宣は「象牙の塔」から追放されるが、民衆から押されて当選し労農党の代議士になったのです。