006010_平和への軌跡
【9】鶴見俊輔さんに講演を依頼する
2008年12月 9日 14:57
私は哲学には興味関心を持っていますが、専門的に学んではいません。鶴見さんの書かれた『アメノウズメ伝』(平凡社)には触発されました。それに京都新聞の書評欄のページであったでしょうか、記者が鶴見さんにお聞きしてまとめた連載がありましたが、記者が登場者名を誤記したので新聞社に正したことがありました。以前、1970年代に鶴見さんが同志社におられた頃には、私は生物学を中心に見ており哲学等には目を向ける余裕がなく、お会いすることはありませんでした。宇治山宣会の墓前祭の記念講演を依頼するにあたって手紙を差し上げ、京大会館でお会いして、幾つか質問する機会がありました。
私の当時の関心からすれば、花やしきにある山宣資料館にある20世紀初頭の欧米の性学文献(H.エリスやブロッホ等)や鶴見さんのお姉さん・鶴見和子さんの『ステイブストン物語』や産児調節運動に携わった石本シヅエさんの事がお聞きしたい時候でした。
「この時代と会う山本宣治」と題する講演会は、2006年の墓前祭日に行われ、ここには280名の聴衆が来られ、近年にない盛り上がった記念講演会となりました。
鶴見さんの講演は宇治山宣会発行の『山宣』12号に全文が掲載されております。ご承知の通りに鶴見さんは「九条の会」の呼びかけ人の1人でご活躍中です。今回の講演依頼を致しました時に、「最も信頼できる山宣についての資料を紹介してください」と申されましたので、私からは佐々木敏二著『山本宣治』と『山本宣治写真集』をお渡ししました。当日、花やしきでお会いして時、その本を見せていただいたのですが、緑、青、ピンクなど色分けされた附箋がびっしりと付いていて、「もし、批判があったら附箋を見て反論をしたい」と申されました。まさに精読された事がわかる本でした。
鶴見さんのお話のキーワードとして、「ゆっくり成長する」、「1905年・日露戦争の前後で日本のくらし、文化を検討する」を与えられました。鶴見さんの父祐輔さんは東京帝大、1番の秀才でしたが、鶴見さんはこの「一番病」を嫌い、母系の(後藤新平の孫)教育を受けて育ったことが思想形成に影響されたようです。
「山本宣治決して<早く学者になったひとではない>、<カナダのスチーヴストンで労働しながら生きた英語を学んだ>、<日本に帰って大学を卒業した時は31歳、知識の質が違う、知識は自分の中の態度に根ざしていなければ思想になりません>と哲学者は言われました。<アインシュタインのところでニコライの「戦争の生物学」の推薦文を貰いに行く、しゃべっているうちにアインシュタインの態度が変わる、独特の国際人ですよ>
<もう1つ。彼は英語を楽に読める、ハヴェロック・エリスを読んだ、このエリスに影響を受けたのは有島武郎の「或る女」や宮沢賢治です>。
豊富な知識を自在に活用したこの講演は予備知識がないと理解ができない「難しさ」がありましたが、私はこの講演では知的興奮を覚えたものでした。
<まとめに言われたのは「山宣ひとり孤塁を守る」は立派なんだが、「好むにせよ 好まざるにせよ やがては来る その日のために」には詩的含蓄がある素晴らしい言葉だと思います>
私は加藤シズエの戦後の歩みやご自身のジャワ島での研究活動などお聞きしたいことがありましたが時間切れでした。
「9条の会」の活動を広める先頭に立っておられる鶴見さんの姿を思い、山宣のように「孤塁を守る」闘いにならないように平和の戦線を広げる努力が必要だと痛感しました。