006010_平和への軌跡
【10】「戦争の生物学」と田畑忍先生、森田俊夫氏
2009年1月14日 17:39
私は『山本宣治全集』を編集し、性学・生物学分野の解説を担当したためにこの「戦争の生物学」を数回読む羽目になりました。山宣が最初にこの本にであったのが、東大時代です。山本は英語版のG.F.ニコライの「戦争の生物学」を読み感激しました。
生物学の生存闘争の理論を社会に悪適用して、「優性劣敗」・弱肉強食による社会進化論が戦争肯定の論拠とされたのに対して、クロポトキンらの相互扶助論により反戦平和の主張もありましたが、著者のニコライが同じ生物学者であり、ドイツで反戦活動を企て、幽閉され、国外に脱出するなどの苦難の中で出版したことを知ったのです。ところが英語版は本人の知らぬところで編集したものだと分かり、山本はドイツ語版を取り寄せ、その翻訳権の交渉をしていました。
東大を卒業して山本は京都に戻り、新進の性学者として性教育を同志社大予科で始めるとともに、京大大津の臨湖実験所講師としての勤務に通う車中で翻訳をしました。「腸チフス症回復の後、全力を以て訳し」、1922年4月に内外出版から上巻を出しました。
その後、翻訳は7年間放置されましたが、「左翼戦線は、大弾圧に面して闘志を腐敗させてはならぬ」と選挙戦での疲れから坐骨神経痛により歩行が困難になっていました。そこで書斎に蟄居して「戦争撲滅のために奮闘せよ」のスローガンと進捗表を張って翻訳を開始しました。
病み上がりの山宣の体調を心配した仲間からの温泉治療の勧めに従って、ひそかに信州・上林温泉の塵表閣に籠りました。警察官は「山宣が消えた」と騒いだそうです。
その塵表閣ですが、1901(明治34)年に温泉旅館を始めています。これが上林温泉の起源にもなった由緒ある旅館です。
2007年秋に「性と社会」の講座を信州で行いましたが、そのきっかけがこの塵表閣を共に調べるはずの長野性教協の中原信さんとの約束でした。訪れてみると、花やしきに匹敵する由緒ある風格のある旅館でした。
ここで、山宣は「戦争の生物学」の訳出にラスト・ヘビーを賭けたのでしたが、翻訳は最後の50ページを残して刺殺され、無念の極みでした。最後は安田徳太郎が訳し切ります。読んで頂ければ安田の訳辺りからは読みやすくなります。山宣は文語調の教育を受けましたが、安田は口語調の学校教育を受けたことと作家志望で文章が読みやすいのです。
さて、この「戦争の生物学」を高く評価した人が2人おります。ひとりはご自身が山宣の性教育を大学の予科で受けたと言われる憲法学者・「平和中立」を主張された田畑忍先生(同志社山宣会2代目会長)です。
「戦争撲滅の必須と可能性を論じた」動志者ニコライ博士の膨大な『戦争進化の生物学的批判』多忙且つ病弱な中で翻訳したその熱意と執念こそ、キリスト教の形骸を捨てながら、真精神を生かし続けた山宣の短い生涯のバックボーンであった」(「山宣研究」2号)と高く評価されました」。
先生のお宅は相国寺門前町同志社女子大校舎の横にあり、狭い階段を上がった部屋でお話を伺ったものです。先生の所に行く時は緊張しました。同志社周辺でお会いする時も先生は中折れ帽子をとってお辞儀をされます。この通りでは川村能楽堂の息子さんも律儀に挨拶されました。彼が自転車に乗っている時、私を認めると自転車を降りて挨拶をされましたから私にとっての「お辞儀通り」でいつも姿勢を正される小路となっていました。
さて、田畑先生の平和への思いは大変に強いものでした。何時の事だったか忘れましたが、「上田耕一郎くんに申し上げたのですが」と「永世中立」の主張を繰り返されました。
もう一人は平和教育のリーダーであった教育学者の森田俊男さんです。森田さんには1995年12月の花やしきで講演して頂きました。
・「永久平和の理想をみんなのものに」と題してのお話でした。ニコライが提起しているものは何でしょうか。それについて山本は上巻を出した年の年賀状で、「戦争の生物学は<永久平和の理想>を広げようとするものであり、生物学研究に基づいて軍備拡張の愚挙であることや好戦的本能と尚武主義は代おくれの厄介物で…世界平和の理想実現のためにそれを感傷的幻想とせずに、この本をぜひ読んで欲しい」と友人・知人に紹介しています。
上巻が出た1922年前後、石橋湛山や吉野作造などが小日本主義に立ち、永久平和のための国際機構・国際連盟の必要性を論じていました。その点では、「戦争の生物学」をひっさげての山本宣治の一途な平和のための戦いは湛山などと並べてみておくべきでしょう。それは「自分の専門以外のものへの序文は書かない」というアインシュタインを動かして序文を得ています。
先述のように、将来の平和運動の担い手として知識階級に望みを託する教授に対して、山本宣治は<卑怯無為の知識階級より実行力に富む労働者階級に必要な知識を供給しようと試みるのが急務>と切り返しています。
「山宣が<戦争の生物学>の後半部分の翻訳に再度取り組む1928年、<戦争の拠棄てるに関する条約:パリ不戦条約>が締結され、翌年日本も加入しました。弱点はあったにせよ連盟の下で国際紛争を平和的手段で解決されることが約束されていました。だから山宣は当時の天皇制政府の中国への武力干渉を続けることに厳しく批判して、反戦平和の世論牽制のために献身しました(この講演の後半は、「永久平和のための国際機構を―人間は本性としての暴力を統御・放棄しうる」ですが、ニコライがカントを引用しての「永久平和のために」を高く評価し、生理学者ニコライの云う「超人:交戦本能の突然変異で決定的な平和なる生物」の登場に期待する、<人道が凱歌をあぐる時には戦争の弔鐘が鳴り渡る>を紹介しています。(紙数の都合で私が要旨をまとめました。本文は「山宣研究」15号収録)
トッドの『帝国以後』やニコライの『戦争の生物学』を読むにつけアメリカを首領とする軍事産業=死の商人(とかつては呼んで忌み嫌った)は確実にべらぼうな儲けにありついています。支出は国家財政の軍事費です。弾やミサイルは戦争がある度に莫大な量が消費され次々と「生産される」。ニコライが告発した時代の兇悪兵器はダムダム弾でしたが今はクラスター弾・中性子爆弾や地雷などの必殺兵器が禁止されずに使われ、儲けています。他方では塗炭の苦悩の中での喘いでいる多大な被害者がいるのです。
もう20年も前でしょうか若者に人気のあったヴァイオレンス・アニメに、『北斗の拳』がありました。廃墟となった地上での狂悪がはびこる。それもニコライの言うのとは逆の「巨人」の跋扈(ばっこ)です。なぜか昨今の日本の各地での連続殺傷事件を思わせる状況ではないでしょうか。
近未来小説でなく数十年前の日中戦争、それに続く太平洋戦争、第2次世界大戦で我々・日本国民がアジア諸国を侵略、加害し日本国民自身も傷ついた現実の姿でした。韓国の平和資料館の館長さんの言葉、「戦争はすべての国民が被害者だ」を思い出します。