006010_平和への軌跡
【12】山宣の通夜の場所へ
2009年1月23日 10:53
2日目後半は、東京帝国大学周辺の葬送行進のコースである本郷通りを辿りました。1929年の3月5日の夜、白色テロで刺殺された山宣の死に対して多くの仲間たちは非常にショックを受けました。その知らせを受けた太田慶太郎もその1人です。太田は「山宣研究」2号に「本郷仏教青年会館の山宣葬」を寄せてくれました。
というのは私の岳父・北牧孝三が東京時代に秋笹政之輔の選挙応援をしたこともあり、太田に連絡を取り、寄稿依頼をしてくれました。太田は6日早朝、新聞で山宣の死を知ると旅館に駆け付けました。
するとそこには大山郁夫、細迫兼光、上村進、秋笹正之輔、旅館の女将が遺体となった山宣の寝ている布団を囲んで沈痛な顔をして座っていました。太田は故人の顔にかけられていた白い布を取り、血糊のついた死に顔を拝み、そこに座ったと言います。やがて、秋笹に呼ばれた太田は3月15日に「渡政山宣労農葬」を行う事を2人で決めてその準備を進めました。
遺体はその前の3月8日に東大で解剖が行われ、キリスト教青年会館ホールに安置されました。同志たちとのお別れがなされた後、高倉テルや水谷長三郎が先頭で棺を担ぎ本郷3丁目の仏教青年会館までの葬送行進となりました。
仏教青年会館での告別式は太田が司会に立ち、大山郁夫が議長を務めました。制服私服の警察が多数詰めかけた式場に、同志のほか政友会、民政党の代議士も来ており、「いやしくも国会議員の告別式にこんな警戒をするのはなにごとか」と永井柳太郎代議士が叫んでいました。各方面からの弔辞が紹介の度に「弁士中止!」が加えられましたが、その都度、抗議の拍手が起こりました。告別式が終わり、霊柩車に遺体が移されるとき、山宣を弔う共産党のビラがまかれたのでした。
3月15日の「渡政山宣労農葬」はこのようにはいかず、いっそう警備が厳しくなり会葬者一人一人が身体検査を受けさせられ、弔辞が2、3行読まれるだけで警察官が釣り剣の石突きで床をガチャンと叩き、「中止!」と叫ぶ、「警官、横暴」と抗議する。何度か繰り返すうちに「解散」。天皇制権力は殺され犠牲者を弔う事すら踏みにじったのです。