006010_平和への軌跡
【13】73年ぶりの「戦旗」の訂正
2009年2月 6日 15:34
山宣の最後については江口かんの「山本宣治氏の暗殺事件真相秦早キ」(「戦旗」1929年4月号)に載っており、西口克己の小説もこれによっています。同様に、杉森久英著『暗殺』では朝日新聞編集委員の藪下相治朗が「言論」で取り上げていました。さて、2002年の春、光栄館の長男・平澤浩三さんのお話を聞く機会がありました(02年の宇治山宣会総会講演、山宣の東京ツアーでは現地でもう一度お聞きする)。
平澤さんは81歳とは思えぬほどの声、内容の確かさに驚きつつ聞き入りました。予てから気になっていた「戦旗」(1929年4月号)の記述です。翌日、大阪での集会がありましたので、追っかけをしました。その号を参考にした光栄館の見取り図を用意して行きましたところ、「2階の位置が違いますね」と言って鉛筆で訂正してくれました。それがラフですが訂正図です。ついでに「戦旗」4月号の記述も正してみました。
15ページ3行目の時刻:10時50分前とありますが、3月20日の「赤旗」では9時20分とあり、これは少し早過ぎるようです。「佐々木敏二の伝記・下巻」では354ページに9時半少し前とあります。(翌朝の「東京日日新聞」の記述)
写真の説明は単純な誤植で「松栄館」は「光栄館」;2階の山宣の泊まっていた部屋のその真下が長女・雪子さんの部屋で、その夜は化学のテスト勉強で疲れて転寝をしていて2階のドタバタで起こされたという。
<光栄館の挿絵>
16ページ10行目、酒3本は「2本」が正しい。平澤さんは「ふだんから2本を膳に用意していた」と言いました。真夜中に駆け付けた細迫兼光らの証言があります。
19ページの階段の挿絵:階段の下には柱があった、犯人と山宣が組み合って下に転げ落ちた時、雪子さんは恐ろしくて柱にしがみついていたそうです。なお、そこに柱時計があったそうです。
平澤浩三さんは当時7歳であったそうです。刺殺直前に廊下で出会った時、にこにこしながら頭を撫でてくれたと振り返られました。集会終了後、JR森ノ宮駅近くの喫茶店で、コーヒーを飲みお別れしましたが、素敵な帽子を手にしておられ、「風で髪の毛が乱れるといけませんから」と、好々爺は帽子で眩い頭に乗せたのには、笑ってしまいました。