006010_平和への軌跡
【16】多喜二と宣治との出会い
2009年2月27日 16:46
多喜二と宣治の関係は、小説「一九二八年三月一五日」と昭和4年2月8日衆議院予算委員会第2分科会の「拷問・不法監禁に対する質問」とを比べてほしい。最近、多喜二の小説「蟹工船」がブームになり、多喜二も有名になりましたが、「一九二八年三月一五日」は気合いを入れて読まないと脂汗が出ます。
山宣は労農党選出の代議士としての国会追及で、「札幌に於ける裁判の如き、私は当日傍聴しましたが、或る婦人の被告はその取締りの最中、、、言語に絶したる辱めを此の取調官吏から受け」た、と事実をあげてこの残虐非道な行為を糾弾しました。この婦人とは久津見房子で、山宣とは産児調節運動等で共に闘った仲間でした。28年12月20日彼女は山宣宛に手紙を出していました。
「今月初旬当地の組合の人が面会に来てくれまして、、、その際、先生が御元気で、新党組織の中心として御活動になっている事知りまして、非常に嬉しく存じました」。
これは旧労農党への弾圧・解散命令が出され、これに対して「政治的自由獲得労農同盟」を作って対抗したことをさしてます。国会議員として、山宣は治安維持法を基にした弾圧事件の調査活動を行い、1928年12月26日から12月9日まで東北から北海道を訪れています。山宣は12月3日、小樽の演芸館で講演して「つる屋旅館」に泊まりました。そこに参加した北海道の同志の木下源吾から翌年1月2日に山宣宛の手紙が届いています。「新ラシ闘争へ邁進セラレル御心労ヲ謝シマス。北海道ノ同志モ新闘争ノ準備が整ヒイマシタ。、、」
こうした事実は「山本宣治全集」に載っています。多喜二とはどこかで接点があるはずです。
そこで、05年9月17~19日、大阪と宇治の山宣会の共催で「北海道平和の旅・山本宣治、野呂栄太郎、小林多喜二の足跡を訪ねるツアー」を実施しました。当地のご案内は小樽商科大教授・倉田稔先生でした。先生は多喜二研究を深められ、住居跡、6年間通った潮見台小学校等、同道したバスガイドが感心されるほどの詳しい小樽観光ガイドもして頂きました。その倉田先生は、「2人は会っています」と断言されました。
1928年12月3日、「多喜二は山宣の宿泊したつる屋旅館を尋ね、山宣の印象を面白い話をする人だと友人達に話している」と続けました。その後1930年5月18日、多喜二は雑誌『戦旗』の募金活動のため花屋敷を訪れ、墓参をしたそうです。山宣の母・タネは喜んで迎えて、短冊への揮毫を求めたところ多喜二はそれに応じたそうです。