006010_平和への軌跡
【18】下伊那・信南自由大学・“LYL”
2009年3月 7日 18:31
前述では、両地とも自由大学で山宣が講演していましたが、信南自由大学は設立当初から、プロレタリア文化運動(プロレットカルト)が構想されていました。担い手は横田憲治、平澤桂二、須山賢逸らのLYL(リベラル、ヤング、リーグ:自由青年連盟)の影響下のメンバーが中心でした。
下伊那地方は自由民権運動の一環としての「飯田事件」にみられる権力の不当な圧制への反骨精神が旺盛で、短歌雑誌『夕樺』発行(白樺の人道主義に共感して付けられた)に結集した若者が目覚めてLYLに繋がっていきました(詳しくは、佐々木敏二著『長野県下伊那社会主義運動史』、信州白樺)。
LYLは機関誌『第一線』を出し「新興階級の歴史的使命の遂行を期す」ための活動を始めました。この活動の1つとして、1924年正月の1月8日から5日間、飯田町南信自由大学が開校されました。山宣は「人生生物学五講」を担当し、聴講者は57人でした。3月15日からの「青年教育講習会」に中央から新明正道らを招いている、最中に「LYL事件」の検挙が始まり、若い活動家が獄に繋がれました。
彼らは政治研究会を作り公判闘争を支援しながら活動を続けました。この中心になった人物に清水玄三郎がいました。私は佐々木敏二さんの前掲の著作執筆のための調査に同行しました。清水さんの家で炬燵(こたつ)にあたりながら、聞き取りをした事を懐かしく思い出しました。山宣はこの頃、水脈社事件で京都大学を辞めさせられます。この頃から労働農民運動の高揚で民衆への権力の牙がむき出しになっていきます。「3・15」そして「4・16」事件とうち続く弾圧に屈せず、鷲見京一らは頑張りました。
私の育ったのは同県上伊那ですから、鷲見の名前は農業改良運動の「ミチューリン運動」とともに幼少から馴染みがありました。思春期の鷲美は先輩の影響により、先の自由青年連盟(LYL)に加盟しその中心的メンバーになりました。当時の活動と言えば、雪道を徹夜して二十数キロの道を出かけ仲間へ連絡をし、東京から届く非合法新聞が飯田の駅に着く前に、手前の駅で受取り、峠を越えて配布し飯田駅にわずかにその新聞が着き警察が差し押さえる頃には、配布が完了していたと言う創意的な活動をしました。
鷲見はこれらの活動で目をつけられ、「3・15」の検束、これにはハンストで抗議、入党後の「4・16」では6年の懲役刑を受けました。家族友人の支援が支えとなり非転向で満期出獄します。当時、農村は繭糸価暴落で窮乏化が進む中を敗戦まで保護観察の身でありながら、農畔耕地整備の事業先頭に立って活動を続けます。
戦後、再入党して衆議院候補となります。落選しても日農のリーダーとして村、続いて県の農地委員となり農地改革、土地改良の活動に尽力し、その中でミチューリン運動に参加しました。他の地域ではレッドパージや地下活動と混乱する激動の日々でしたが、ここではミチューリン運動により農民との結びつきを強めて乗り切っていきました。
「選挙と言えばいつも落選」の鷲見も、安保闘争後に共闘組織ができると上げ潮に乗って鼎町町議に当選しました。3期を前に脳卒中で倒れ、それをきっかけに「記録は実践の証明」と戦前からの活動を書き始めた自伝『伊那谷を花咲く大地に』―農民解放の先駆者鷲美京一の歩んだ道』を書き始めましたが69歳で逝去しました。
この本には「百姓わしみ、人間わしみ」と庶民から愛された波乱に富んだ生涯が綴られています。口述筆記したものを死後に、妻や甥相波三郎やジャーナリスト塚原広志らの協力、刊行委員会の手によって出版されました。