006010_平和への軌跡
【23】黒田保九二と瀬川負太郎
2009年3月11日 16:50
『山宣研究』の要請に応じて、北九州在住の瀬川負太郎さんが「暗殺者」の原稿と黒田保九二の写真を送って下さり(1975年3月)、同誌12号に載っています
瀬川負太郎さんによると1952年頃、国鉄をパージされて自由労組の書記長していた時に組合員名簿に黒田保九二を見つけたそうです。
「黒田は別に変哲のない中老男で、日焼した顔にいつも柔和な表情を浮かべていた。組合費もきちんと払っているし、動員に必ず参加している。…しかし黒田だけはつねに聞き手であり、自分については語らなかった。ただ1度、<わしは人に言えんことをしているから>というようなことをぽつりともらしたという」。
こんなオドオドした男が暗殺者とは合点がいかなかったようです。そうしているうちに瀬川さんは病気になり、入院。代わって委員長が彼の消息を聞き、写真を撮ってもらったと云う。黒田は脳梅毒で、市外の精神病院に入院していて、「山宣を刺したのは<えらい人>から頼まれた。成功したら150円の報酬のほかに<いい身分>を約束されたが、服役を終わり<偉い人>を訪ねたが、相手にされなかった。そこで新天地を求めて、朝鮮経由で満州に渡りましたが、うだつが上がらず敗戦で引き揚げたと言ったそうである」
なお、この件については、歴史学者の松尾洋が「山宣刺殺犯人黒田保九二のこと」(1989、8、15の「旧縁の会会報」)でも追跡しています。黒田は正当防衛と主張し「懲役6年」の求刑、1930年の東京控訴院の判決は懲役12年、黒田は上告せず下獄し、恩赦で1937年に仮釈放(正味7年8カ月)。戦後の北九州では、黒田の様子として瀬川さんの聞き取りと同じものが紹介されていました。
私は性教協の中国の首都師範大学での「性健康教育交流会」に参加し、オプションで中国東北部・731部隊の足跡を訪ねるツアーに参加しました。その時のオプションの旅行で「ラスト・エンペラー」として担ぎ出された溥儀が幽閉されていた部屋を見ました。甘粕正彦部隊が溥儀を探し出したようですが、その時甘粕部隊に黒田がいて使い走りに噛んでいたとも伝えられましたが、真実はどうであったか?確認はできませんでした。
瀬川さんはその後に入院し、委員長も当の黒田(行橋市行橋保養院)も亡くなって写真だけが残ったようです。「けれども、権力から利用されるものは所詮、利用が終われば、紙屑同様に捨て去られる」「今にして残念なのは、山宣暗殺という歴史のカギを握る男がそばにいたのに徹底的に追跡しなかったのはうかつだった」と瀬川さんは書かれています。
なお、この追跡はその後、宇治山宣会調査研究部の本条豊さんが追い詰めました。地元の新聞で『山城の25年;南山城の光芒」に連載後に出版された本を参照ください。