006010_平和への軌跡
【24】鳥取と水脈社
2009年3月11日 17:27
鳥取市の水脈社主催の講演会は、1924年4月17日夜、大黒座において開催されました。鳥取には山宣の3男の浜田繁治さんがおられます。山宣のデス・スケッチを残した橋浦泰雄の故郷でもあり、産児調節運動をきっかけに三田村四郎や久津見房子らの大阪産児制限研究会のメンバーとともに講演会に出かけた地でもありました。
久津見は「婦人の立場から見た産児制限」、三田村は「産児制限運動について」、山宣は「生物学上より見たる性教育と産児制限」の講演があり、約百人が参加しました。開会の辞から警官の注意があり、久津見の戦争否定の言動、三田村は「障壁という言葉で実際方法に言及したのが悪い」、山宣の演説は、<自慰の奨励、堕胎の肯定の言に注意を数回したが、聞かなかったので中止>させられ講壇から引きずり下ろされました。新聞報道で京都帝国大学の講師が警官によって講演途上に中止・降壇させられた、との記事が出ると、京大では不詳事として責任の追及が起こり、6月末に依願退職に追い込まれました。
1920年から始められた数年間の性教育・性学研究と産児調節運動は目を見張る内容でした。水脈社の講演では何を話し、なぜ中止になったのか。予定の会場が使えなくなり大黒座に急遽変更され、開会が30分遅れました。参加者は約百人でした。開会挨拶で、司会の湧島義博が会場変更をした学務課長を「馬鹿だ」となじって弁士注意を食う。続く久津見房子、三田村に対して警察は弁士中止を連発。山宣は数回の注意をしたが、改まらなかったので警察は中止したという。
京大をクビにされた山宣は、約一カ月後に東京帝国大学の社会科学研究会特別講演会で、「聴衆、堂に満ちて文字どおり立錐の余地もない(600人以上)」ほど集まり、「帝大新聞」にも「街頭と研究室」の短文をよせ、「象牙の塔」から出て庶民のための教育活動に踏み込んでいきました。山宣は京大教授の道が断たれましたが、この数年間の山宣らの奮闘によって、「産児調節の是非」の議論をクリアしていきました。その結果、山宣が用意した講義用に作った生殖器の解剖図(デイキンソン元図)を使って馬島僴が「公開講座の際、山宣が弁士中止・降壇させられた時の内容での産児調節の説明をする教授法の自由」を勝ち取っていきました(1926年「産児制限結論・その以降」『太陽』1月号)。