006010_平和への軌跡
【25】水平社の坂本清一郎と木村京太郎
2009年3月11日 17:37
サツマイモと枝豆
稲田の黄金の波が続く奈良路を樫原神宮駅へ、電話で告げられた「郡界橋」でバスを降りて、高い煙突を目印に桐の材木の積上がった小路を抜けました。家の前には水平社の記念碑、西光万吉作の「人の世に 熱あれ 人間に 光あれ」の銘文が、カイヅカイブキの植木に囲まれていました。坂本さんには、山宣との出会いから伺いました。
―大正12年の夏期講習会に5人の講師をお願いしました。山宣、水長(水谷長三郎)小岩井、坂本勝、吉田兼一だったと思います。講習会の後、私の家ですき焼きを食べた。水長は美味い美味いと白いホルモンが何か分からず食べて、もっとないかと言う、予め注文しておかないと直ぐには用意できません、宣治さんは生物学者だからちゃんと名前を言う、私はイタチの耳まで食べた事があると言いました。―
産児調節運動については―山本さんは前からの知り合いで、「山家女史家族…」の本は知っていました。水平社の本や雑誌にも広告を載せました。農民にとって貧乏人の子沢山で苦しんでもっと楽になるには制限しなくてはならん、制限するのも我々の権利であると。
ところが私も露骨に産児制限と言ったから弁士中止を2度も受けた。講演会の後、若い女の人が数人残って真剣に相談を受けていました。講習会以外にも2~3回、山本さんには来てもらって相談を受けた。私の家内も近郷の人に勧めてくれました。
具体的な処置については芝原浦子さん<大阪の阿倍野のあさひ町の看護婦、看護協会の主任:芝原浦子さんの業績については、後日、藤目ゆき著『性の歴史学』(97年度山川菊栄記念賞受賞作に詳しい>にやってもらいました。
「山本さんの人柄については―仲間うちでは敵がなかった。思想の相違で何かと反目しますが、山本さん反感をもたれることは聞いていません。みんなから信頼される性格でした。
芝原さんが検挙された時、弁護士だった水長にやってもらった事があったから、水長が「右翼だ」と攻撃され四面楚歌になり、誰からも相手にされなかった時、あやめ池に彼を呼び「お前が奈良県の代表として行け」と、私は労農党の中央委員でしたが欠席した。こうして水長が復活したのです。
戦後、片山内閣の時に西尾らと入閣して商工大臣になりました。坂本君は大臣になっても一向に来てくれないので行ったのです。その時、水長はワイシャツ姿でテーブルに足を乗せていたので、<だらしのないことはやめておけ>とみだらな服装や態度はあかんといったのです。お月さんとスッポンという言葉がありますが山本さんと水長は人格的にそう言えます。今でも頭に浮かびます。一緒に歩いた仲間ですから非常に親しみを持った忘れ難い人です」
話の途中に奈良県知事代理からのお祝いのあいさつの方が来られました。話が終わった後で西光の描いた襖絵の説明がありました。「最近は目が悪くなり弱りました」と話されるまなざしはやさしい。帰りに自家製のサツマイモと枝豆をお土産に頂く。そういえば山宣は坂本さんからスイカを貰って帰ったはずでした。