006010_平和への軌跡
【26】自然薯の郵送
2009年3月11日 17:47
坂本さんの所でもモツの話が出ましたので食べ物の話を続けましょう。当時、労農党の事務所は京都駅の近くの大石橋付近にあり山宣らも支持者と集まり茶碗酒を飲んだそうです。車座になって持つ料理を楽しんでいる時、ここでも山宣は専門の学識を発揮してハツこれは心臓です、と解説しながら食べました。東大時代に解剖実習で主なる動物を切り開いて、学んだ経験が生きたわけです。この話の主は、木村京太郎さんでした。
「水長はモツにも茶碗にも口をつけなかったが、山宣さんはモツもうまいうまいと食べ、我々の中に入り、打ち解けて、茶碗酒も平気で飲みましたよ」。
木村さんが水平社主催の講演会の依頼を快諾した話が幾つか残っています。小岩井浄の紹介で第3回水平社大会会場もその1つでした。山宣は1924年の春の事、それが縁で奈良の高市郡(畝傍市)や八木町の講座に参加していました。
木村が「白色テロの凶刃に倒れる」の悲報を知ったのは大阪刑務所未決拘留中(3・15事件)でした。この悲報に静かな獄舎では時ならぬざわめきが起り、窓越しに抗議のハンストが伝えられ、断行したと言います。
木村京太郎、北牧孝三、井垣次光らは没後50周年記念事業の実行委員会のメンバーとして住谷悦治代表呼びかけ人のもとで田村敬男らの同志らと旧友(土曜会と称していた)に訴えて実行委員会の活動を盛り立ててくれました。
この時、木村は京都の西方の鳴滝におられました。その土曜会が母体になり「京都民主主義運動史を語る会」が生まれ、今も『燎原』が発行されています。発足時には清水寺教学部長福岡精道師がメンバーであったこともあり、この例会・「語る会」はよく清水寺の成就院が会場になっていました。
木村と親しく交流したことでお礼に信州(私の育った所)のリンゴを送った事があります。それへのお返しで木村からは律義にも自然薯を送ってくださいました。ご自分で荷造りをされたのでしょう。麻ヒモであちこちと繋ぎ合せてのパッキングでした。