006010_平和への軌跡
【28】山羊ひげの翁・誉田季麿
2009年3月13日 09:56
誉田から山宣への手紙は30通以上もありますが、ご本人とお会いしたのは1回だけです。
若い時は山宣の周辺で活動し、晩年は今東光の所で身を寄せておられました。山宣が刺殺された時に弔意の手紙を送っています。
「<前略>労農大衆の凄まじき進出に恐怖した支配階級は終に先駆者に対する悪むべき陰謀と兇刃を以て対しました。ブル新、ブル議院はこの事件の大衆へ与えた憤激に怯え上がって「法を守れ」と叫んでいます。全世界を震撼せる階級戦に流された尊き血潮を踏み、忘るるべからざるこの義人の屍を捧げて新たなる時代は更に一段と進出することでしょう」
誉田は山宣を労働組合運動へ結び付た事で知られています。三田村四朗の想い出です。
―「当時神戸の実家に帰って曉民会時代の友人の誉田季君が突然大阪高麗橋の拙宅にたずねてきた。…その翌日、私は初めて宇治花やしき新宅を訪れた」(1946、『太洋』)
野田律太、大矢省三を加えての4名、<旅行後たった今床に就いたばかりだ>と言われたが、労働組合の者と知って飛び起きてきて即座に友達になった>と回想していました。さて、誉田と私との「山宣研究」作成の頃の交流です。その1つを紹介します。
「小田切さんと延延3時間お話したのが、拙者の誕生日・11月20日の2日前、「山宣研究」が出るのが3月末、そのため月末までに写真を送る約束をしましたが師走の23日までに写真はお目にかからん。山宣は生前に思想に弾圧があったばかりでなく、セックスの方面でひどい圧迫があり、世相が暗かった。それがポルノ横行、「愛のコリーダ」で男女の性器が実写されて、大島渚監督がカンヌで映画賞を受けるとんでもない時代が来たようです。
西鶴の「好色一代男」「源氏物語」「曽根崎心中」は文学で男女の営みは見たところで何ということもない。山宣はアメリカの「キンゼイ報告」に先んじて「手淫<山宣は自慰のキーワードを使ったが>無害論」を公にしました。スケールの大きい人でしたナー。
拙者には兄がおり生きていたら本年百歳になる。いろんな師がありましたが、最近物故した今東光もその1人です。山宣は「師」であり、「兄」でもあった。
東京で「公評」という雑誌を編集している裏田稔を知ったが、「過激と猥褻」で名を売った宮武骸骨を同志として研究をしている人です。明治22年、政党政派と関係のない三宅雪嶺、正岡子規、長谷川如是閑の「日本新聞」がポルノ記事で売った「団々新聞」の後にできました(後略)」―