006010_平和への軌跡
【29】徳田御稔、小野喜三郎、山内年彦、山田忠男、正垣清らの生物学者
2009年3月13日 11:01
私が山宣の性教育をライフ・ワークにするきっかけを与えて下さったのは、京大の進化学者の徳田御稔です。その後、山宣の生物談話会で直接接した動物生理学の小野喜三郎や動物学者の山内年彦、山宣が勤めた琵琶湖の臨湖実験所の助手の正垣清、山宣の性学・性教育の継承した朝山新一らの話をお伝えしなければなりません。
山宣の性学、性教育について当時の彼の活用した冊子や資料を頂き教えてくださったのは、京都での「私の先生」であった小野喜三郎です。小野はカエルの研究を永年にわたり京大で続けてきましたが、いわゆる「論文を書かない」ために京大では教授職になれず、府立大学で教えることになります。
「私の先生」と申しましたが、同志社と小野宅は東隣という近さでしたから、授業中の生徒からの質問で答えられないものには小野先生に聞きに出かけました。生理学者としての見識だけでなく、「子供を守る会」の役員として教育に熱心に当たられ、京都理科サークル(教育現場の教師たちの集まりで自由に教育をめぐる諸問題を研究していた)にも気軽に応じていただき、生物教育の自主編成運動として私たちサークルで始めた執筆運動にも共同研究者として助言・アドヴァイスを頂きました。そこで「子供とともに学ぶ生物教育」(たたら書房)、「自然の中での遊び」(創元社)、「細胞の学習」(新生出版)「京都の動物」、「京都の植物」等の啓発書を出版しました。百歳までお元気で活躍されました。最後まで勉学への熱意をお持ちで、「人類の起源」問題を理科サークル生物部会で勉強しておりましたが、その研究書(“National Geography”)等の文献の解説をして頂きました。
山宣の性学研究のバックグラウンドとなった学際的な性学独書会(詳細は三部で述べます)があります。これは安田徳太郎とともに進めていました。場所は京大学生集会場において月二回開かれました。ここに参加した小野は山宣の様子を洋書を片手にペラペラと頁を捲りながらイヌの睾丸の発達等を紹介してくれた事、ここで紹介されたH.W.LONGの“SANE SEXUAL LIFE AND SANE SEXUAL LIVING. を大阪毎日新聞社の大石泰造が紹介していましたが、それを翻訳した冊子『健全なる性生活』を山宣は訳し自費出版していました。私は小野から「これには訳者名が書かれてないが、山宣が翻訳して出した。結婚したての仲間にはこれをよく読めばどうすればよいか参考になるといって渡したものだ。君にもあげます」と頂きました。
山内年彦もこの性学読書会のメンバーでした。第6回目にドイツの文献を紹介しています。その後、ドイツに留学した動物学者であり、研究業績をお持ちでしたから、山宣の生物学の成果は何も無いと言い切りました。「イモリの染色体を手がけたが当時の研究水準ではあの研究テーマはおいそれと結果がでるものではなく、この研究を放棄したのは賢明であった。彼の真価はジャーナリストとしての才能だと、知己に富み庶民に分かりやすい話をしていた。
自分の専攻を諦めて性学・性教育に力を入れて、戦後有名になったキンジー・レポートの24年前の性学調査は立派なものだ」と言われました。
山内は戦後、1949年3月6日没20周年記念講演会で議長を務め、公選制の京都市教育委員に立候補・当選しました。彼には「山宣研究」2、3号に寄稿頂きました。
性学・産児調節運動では太田典礼と朝山新一にも教えを請いました。太田は太田リングの普及のため半世紀にわたり、権力と対峙して頑張りました。朝山はJASE(日本性教育協会設立)と性教育の普及のため尽力されました。同志社に私が就職した時には、礼拝堂横の理科学館の教官室に来られていましたから話を伺いました。同じ同志社の山田忠男からは山宣研究への励ましを頂き、私が「生物学史」に強い関心を持っている事を知り、工学部の島尾永康教授に紹介頂きました。
最後に、正垣清は京大臨湖実験所山宣が勤めていた時の助手でした。イモリを捕え、プランクトンネットを共に引いた間柄でした。山宣は1924年春、鳥取の「水脈社事件」を理由に馘首されるまで、京大の講師としての仕事を助けてもらっていました。