006010_平和への軌跡
【30】山宣の色紙・揮毫
2009年3月13日 11:15
新潟の市村さんの紹介は縦書き
山宣の揮毫はあまり残っていません。晩年、東京と新潟の五泉での2つがあります。その1つが新潟の五泉で見つかっていた、縦書きの「唯生唯戦」の4文字のもの。横書きのものが2日前の東京で障子に書かれたものです。この4文字が何を意味するのかは謎です。
約1週間後に山宣は刺殺されましたが、宿泊していた宿、東京神田の光栄館の関係者の平澤さんにお聞きしたことがあります。この宿は代議士山宣の定宿でしたが、2階の山宣が寝起きしていた床の間には、南州の軸が懸っていたと言われました。「唯生唯戦」はその軸にヒントを得たのではないかと想像したわけです。
そこで西郷の本を読んでみました。そして鹿児島市の記念館を訪れた際に、館長にお尋ねし、軸になっている漢詩を調べたことがあります。
1929年2月26日夜、夜行列車で東京を出た山宣は8時過ぎに五泉に着く予定でした。急いでいたのでしょう。切符は車内で買っています、資料室にその証拠の車掌さんから求めたチケットが残されています。
山宣への警察の弾圧が厳しい。そこで全農の新潟県連のリーダーであった石田有全が迎えに出むき、列車の中で会いそのまま乗り越して村松駅で下車、そこで山宣は演説を行い、その後に五泉駅前の<かじや旅館>に行きました。ここで昼食座談会を行い、山宣は「科学的セックス論」を語り、そこで「唯生唯戦」の書を書き残したのでした。
新潟社会運動史研究家・「新教(新興教育研究所:昭和5年創立)活動家の市村氏は当時の山宣の行動を語ってくれました。もともと五泉(中越地震で大変な被害を受けた所)は新潟出身の土田杏村で、「自由大学」を開設したおり、山宣は講師として1923年8月に行われた「魚沼自由大学」で、高倉テルらとともに講師の1人として「性教育」を話した所でした。