006010_平和への軌跡
【31】孤塁論争と「赤旗」
2009年3月31日 11:38
山宣没50周年事業では、山宣とともに活動した同志たちの最後の大結集となったのが
花やしきでの全国交流会でした。ここでの1つの「議論」は標記のものです。強くこのことを主張したのが、群馬県の宮岡融(とおる)さん。
私や佐々木敏二さんに長文の訴え「山宣ひとり赤旗守るー孤塁は正しくない」との主張を1958年3月17日の「アカハタ」に載せ、全国の仲間や研究者からの声を集め、まとめた手書き新聞・「よびごえ」を送って来られました。
それには山辺健太郎、安田徳太郎、斎藤秀夫、谷口善太郎、西尾次郎平(註、全農大会の書記)、羽原正一、田村敬男らが発言していました。宮岡はこの「よびごえ」(難波英夫夫字による)では、50周年事業実行委員会の事務局長の任にあった私へ手紙を送ってきました。
「“山宣のごとくたたかおう!” 連絡のうまくつかないままに、1936年の大阪を逃げ出し四十年間いつもこの気持で過ごしました。年月が過ぎれば過ぎるほどに科学者であり人道主義者であり、それゆえに共産主義者としての山本先生の偉大さに頭がさがるのです。<五十周年集会でまとまれば>、大山先生の墓碑銘の孤塁を赤はたと書き変えてはどうかと提案します。石工に相談されれば立派なはめ込みができるはずです」(1979年1月25日手紙)。
佐々木敏二さんの記述にこうあります。「<卑怯者去らば去れ、我等は赤旗守る>無産階級の議員として出ている人は日々何をしているか」(この大会は3月4日、大阪であり)演説後東京に行き、国会で治安維持法に反対する演説を試みるが「質問打ち切りのためやれなくなるだろう。実に今や階級的立場を守る者はただ一人だ。だが、淋しくない。山宣ひとり孤塁を守る。背後には多数の同志たちが・・・(関係者は、赤旗だったという)」(汐文社:『山本宣治』(下)344p)。
私はこの件での説明を佐々木から受けていました。富岡や西尾らの意見へとの論争を予測して、実証主義者の佐々木として徹底して調査をしました。大原社会問題研究所にある全農第2回大会議事録は大会書記の西尾次郎平の記載で、それには<独塁>とありました。大阪市会議員で西尾治郎平さん(当時72歳)は私に、「私が聞いた山宣の最後の演説」と題したコピー(全農第2回大会記念バッチの両面の写真が載っている)を持ってこられ当時の様子を語ってくださいました。
「議場の前面、左側の来賓控え室から、ゆっくりと出てきた山宣の背広の襟には議員のバッヂがあった。」 <ヘマな事をしたのは所轄の戎警察署の臨監の巡査部長である。本来は「赤旗守る」の件で山下警部の合図が出たのであるが、堂々たる山宣の気魄に圧せられてヨボヨボ部長がタイミングを狂わせてしまったのだ>
こうしたリアルな表現に会うと西尾説に靡(なび)いてしまいます。でも、議事録にある記録から判断すべきでしょう。「独塁」であり、孤塁説をとるのが佐々木敏二の考え方でした。歴史学者が議事録から読み取らず、どこに根拠を置くのか、でした。富岡、西尾らが強く<赤旗であった>と申されましたが、記憶はそう確かなものではないなあと思いました。
ただ、弾圧のうち続く中で過酷な拷問に耐えて闘った山宣の同志たちの思いは宮岡や西尾らの共有するものは何かを考えるのが大切だが、佐々木が憤慨したように50周年記念集会において決議を挙げ、墓碑銘を塗り替えるのは歴史偽造であり、やり過ぎでしょう。
大山が孤塁としたためだが、墨跡は文学的であり、美しい。そして半世紀にわたって存在してきたのも歴史的事実です。この赤旗は、共産党の旗でなく旧労農党の赤旗でした。山宣らの闘いが「孤塁」に追いつめられないように広範な人々と「9条平和」を守るのが山宣の願いです。棺の中の遺体を赤旗で包むように指示を出したのは母・タネさんですが、お棺に赤旗をまいておくと官憲に奪われる恐れもあり、防衛にも細心の配慮が求められたのが当時の厳しい情勢でした。
「労農党の旗の下に」(労農党の歌)
見よ 民衆の糧道は 搾取の魔手にかすめられ
自由はあげて 専制の鉄鎖の下に死なんとす
今は闘争に生きんかな 暴圧の嵐<砲火>を越えてわれら行く
労農党の旗の下に 労農との旗の下に