006010_平和への軌跡
【32】北川鉄夫の山宣追悼歌と労農葬
2009年3月31日 12:06
「東雲暗き反動の 同志は刃にたおれ 悲しみのつきぬ間も 憎しみ胸に溢る
血に染めし亡骸に 今やいざ復讐の 誓いは鉄をも砕く」
毎年、3月5日の山宣の命日に彼の業績をしのび、彼の意思を継いで活動することを誓う墓前祭が宇治の善法の墓前で行われています。その際、歌われる山宣追悼歌の作者が北川鉄夫です。その2番は以下の通りです。
「祭壇守るわが友の 怒りは焔と燃えて 赤旗掲げ三月の嵐をつきて進む
誓いて屍こえ 今やいざ血に餓えし 今やいざ血に餓えし彼奴等を倒さずばやまじ」
私が初めてお会した時、文芸評論家・北川鉄夫の名刺を差し出され、本名より通りが良いのでペンネームで通されていました。ペンネームの由来は花やしきの北側を宇治川が流れていますので、姓を「北川」、歌詞にある「鉄をも砕く」の1文字「鉄」をとって名前になったそうです。名付けたのは田村敬男です。北側氏の本名は西村龍三、旧制三高生で、社会科学研究会員で、作家同盟と映画同盟に参加していました。山宣の暗殺を知った3月6日に、ナップ(プロレタリア芸術団体)の関西地方協議会を京都郊外の淀で開くことになっていて、非公然の集会なのでピクニックを装い、淀城か近くの河原に集い、日向ぼっこしながら協議をやる手筈でした。朝、新聞には山宣の暗殺の記事があり、ガーンと頭にきて、細心の注意を払い駅に近づくと、警察官らしきものがうろうろしていたため三条駅を越えて四条から乗って淀駅に行ったと言う。それまで「二度のブタ箱」を経験していたので権力の弾圧への警戒心をもっていました。集会場所の淀川で、寝そべり協議を始めた頃、レポが来て、①追悼歌(赤旗のメロデーで)の作成、②葬儀会場の装飾、③告別式に来る人への劇作、④遺骨到着から葬儀終了までの記録映画作製等の対策の相談がなされました。翌日、北川の友人の下宿で具体的な相談が行われたようです。
山宣の遺体が花やしきに戻ったのは、9日の昼頃で、広場の祭壇で詰めかけた人々の弔意を受けました。午後1時から、旧館の2階の大広間に安置され、通夜が行われました。通夜は6日間続けられました。その間に、プロレタリア演劇同盟のメンバーによる即興劇も行われました。その中心が大岡欣治でした。山宣役には田村敬男が扮しての熱演で参加者に大いに歓迎されたと言われます。
その様子は、北川と大岡欣治が書いています(「山宣研究」4号)。その中で、大岡欣治さんは当時、同志社大学の学生であり、山宣の性教育を受けたという。「京都における山宣労農葬の芸術活動」でした。
高知県に北川鉄夫と同姓同名の川柳作家?がいます。
昨年度の高知新聞主催の川柳で、年間金賞をとった中卒のタイル工です。
作品の中でも、農村川柳が気に入っています。
作品はふるさとへの思いや、権力への痛烈な風刺やユーモアあふれるものが多く、隠れた川柳作家といえます。