006010_平和への軌跡
【33】旧友・土曜会の老闘士
2009年5月18日 12:22
1978年の春、山宣没50周年記念事業実行委員会(50周年委員会と以下略称す)が住谷悦治氏を呼びかけ人代表として作られました。呼びかけ人は、朝山新一、大山柳子、北川鉄夫、タカクラ・テル、田畑忍、田村敬男、細迫朝夫、西口克己、安田徳太郎、山中登、山内年彦、山本浩治、佐々木敏二、木村京太郎、河田賢治、和田洋一、小野喜三郎、松尾尊、井上喜代松、事務局長が小田切明徳でした。
事務局団体は、同志社山宣会・宇治山宣会、国民救援会京都府本、日本科学者会議京都支部、民青京都府委員会、土曜会でした。この50周年事業は、記念集会、資料展、記念館建設募金開始、『山本宣治全集』(全7巻)、『山本宣治写真集』の出版等を行う事を決め、運動を行いました。この活動内容は「実行委員会にュース」(NO.8号まで出しました)。記念館建設募金事業についてのみ具体化が進みませんでしたが、他の分野では良い取り組みがなされました。
実行委員会以外の取り組みでは、山宣劇の「嵐の中の赤いバラ」上演運動、「京都民報」、「赤旗」等での山宣特集が組まれ、「山宣とその時代やその周辺」を多くの人々に知らしめることができました。この活動の結果は、「山宣研究」5号に抄録されています。
この事業を推進する上で、土曜会の存在を特記しておきたいと思います。その中心メンバーとして事務局次長となった井垣次光、木村京太郎、北牧孝三らは山宣と同時代の活動家でした。そして、土曜会を作り、独自にミーティングをし、課題を決めた取り組みをしていました。勤務時間に拘束されてそのあと活動する者とちがい、土曜会の皆さんは日中から集まり行動することが可能でした。彼らが旧友を辿り、呼びかけて記念集会、募金運動を盛り上げました。彼らの意識としては、「50周年が現役で最後の集まりとなる」事を自覚されていたと思われます。たとえば、北牧は当時の同志たちに行事の内容を手紙で送り、記念行事・集会への参加や募金の訴えをしていました。北牧は東京で東大生のセツルメントの活動や労農党の選挙運動や市電闘争で活動していました。
さて、この土曜会の行方についても述べておきます。50周年事業が終わった後(1980年)に、「あの続きの組織を作ろう」と北牧が私に言いました。私的な事情を申し上げあげますと、私はその頃、山宣研究が取り持つ縁で北牧の1人娘と結婚していました。そのため北牧とよく会うようになったのですが、土曜会のメンバーは日常的に密度の濃い交流をしていました。岳父は脳梗塞の後遺症で適切な言葉がすぐに出ないようで、しばしば何を言われているのか不明の事がありましたが、「あの続き」とは50周年事業でまとめあげてきた闘いの歴史を記録する会の立ち上げを意味していました。その結果、「京都民主主義運動史を語る会」が生まれ、機関誌『燎原』を出すことになりました。爾来、この『燎原』は177号(2008年7月号)になりました。