006010_平和への軌跡
【34】山宣の子ども達(1)
2009年5月18日 17:56
長男の英治さんとの出会い
「山宣さんはやさしい人だった。河原町で特高の尾行中、特高が人ごみではぐれないようにとステッキをあげて、自分の位置を教えてあげていました」
71年の春でした。京大の徳田研究室で、「性教育先駆者の山宣から学ぼう」と、生物学教育の研究で性教育をどう扱うかの議論が起きた時に呼びかけがありました。
「君の勤務校が彼の母校です。調べて報告をしてください」と、山宣の性教育との出会いが始まりました。「全集」「選集」読みから始まりました。西口さんにお会いしました。ある程度の下調べができましたので、宇治の旅館花やしきに資料を見せていただきに行きました。旧大広間の壁面に本棚が置かれていました。私が見たかったのは山宣日記でした。話を伺い、それをお借りして宿泊した部屋で読みました。英治さんは、私の山宣研究の水準を聞きとり、「その先の詳しいことは、今鹿児島にいる佐々木敏二さんが書いたものをみてください」と助言くださいました。
こうして我が山宣研究は出発しました。
翌年、鹿児島から佐々木さんが戻られてから、長女・治子さん、山宣の語り部・田村敬男さんらを紹介していただき、英治さんから「佐々木資料室長の補佐役はできますか」とおっしゃっていただきました。その後、英治さんは職場の忙しさに追われるうちに73年秋、急逝(62歳)されました。充分にお話ができずに亡くなられたことは無念の極みでした。「花やしき花やしき浮舟園」を国際観光ホテルとして千年の歴史都市・宇治の中にゆるぎない位置を占めるまでに発展させた功績が評価されます。
二男の浩治の文人肌は父譲り
カナダのカナナスキのホテルでの事。ディナーの時でしたが、ピアノに目が行くとすっと立ち上がり演奏を始めました。奥さんはハラハラしておりました。臆する事無い姿勢はあっぱれです。この地でパパ・山宣が教会の礼拝の最中にピアノを演じたのを思い出されたのでしょうか。
二男の浩治さんは医者です。長男や三男・繁治さんのようには社交的ではなかったように思いましたが、とても愉快な面を私には見せていただいたようです。開業しておられたのが京都市北区で、私の職場は近くでしたから必要な時は電話で御都合をお聞きして昼休みに自転車で医院に立ち寄らせていただきました。写真を撮る事がお好きで、スナップ写真をしばしばいただきました。
さて、患者さんが来られた時のこと、「今日は写真をとります」とDr.浩治。患者は畏(かしこ)まってレントゲンを思い浮かべておられるその時、手もとの一眼レフのカメラでパシャリ。山宣もこうした愉快な所をいくつも持っていた事を彷彿される瞬間でした。よく気がつかれる方で「おい、小田切君、ビールを持って帰り」と隣の部屋から数本紙袋に入れたのをしばしば渡されました。
「山宣を偲ぶ集い」や性教協の研究会で英治さん亡き後、浩治さんに挨拶をお願致しました。その時、「簡単に」と言われますと、「私は山宣の二男の浩治です。本日はご苦労様でした」で終わり、司会者は大慌てでした。
浩治さんのパパである山宣の回想について、サンガー女史が日本に来られた時の事を思い出します。女史の京都での講演会は専門家を対象にしたものでした。雑誌『改造』が産児調節運動の指導者をアメリカから招くと大宣伝しての取り組みを、日本政府は不許可として横浜港で女史が持参した資料を没収し、一般向け講演を禁止したのでした。
この講演会で、事前に女史から直接打診があり、山宣が通訳をすることになり、浩治さんは連れられて行ったそうです。山宣は演壇でなく聴衆と同じフロアーに座っていて、「山本さん」と呼ばれると返事をして演壇に登り、通訳をしたそうです。
浩治さんは音楽ばかりでなく油絵も描かれました。旅に出ますと絵手紙風の絵やスケッチを孫や仲間に旅先からいっぱい描き送っておられました。フクロウの絵が得意で私も油絵を1枚もらいました。