006010_平和への軌跡
【35】山宣の子ども達(2)
2009年5月23日 10:00
治子さんは歌人
歌集『清明の季』(青磁社、1990年)を出版する事をお勧めし、土井大助さんの紹介で出版社が決まり出版できました。これは宇治市の紫式部市民文化賞受賞となり、二重の意味で嬉しくなりました。実は、私も治子さんから和歌を作りなさいと再三勧められましたが、心のゆとりと実力もなく「はい」と言えず、「考えておきます」でした。この文章を書くにあたって、治子・歌集を再読し、「踏火短歌会」の追悼歌会詠草集を見直しました。何と申しましょうか、治子さんの声が聞こえました。「あなた、私が言うた通りでしょ」、と。
そう言ったその意味が、その時は理解できませんでした。だから遅ればせながら、「私は〈鞴火〉に入会し楽しんでいます、治子さんありがとう」。
烈風に あへてかかげし 大き旗父の生身はひきちぎれたり
戦死、戦災死、三百万人にさきがけて邪魔者、山宣の抹殺ありき
これは、治子さんが父・山宣を詠んだ歌です。歌も素敵ですが、この歌集にある「青嵐の日」の文章もすてきで、こうした文が書けるようになりたいものです。
生前の山宣と治子さんとの関係についての安田徳太郎さんの話ですが、宣治さんは治子さんが生まれてからずっとやさしくなった、それまでは優生学通りに沢山の子を産んで育てたいと言っておられたそうです。「治子さんは賢い人です」と付け加えました。
治子さんは肢体障害を持っていたため、山宣は就学を断る申請を出して家庭教師を依頼しました。2人目は近くにお住まいの縣神社の香川しげ子さんでした。
花やしきに通い資料を整理したり読んだりする度に、治子さんのお部屋に立ち寄るようになり、山宣に関する情報のインプットの場になりました。さまざまな事を教えて頂きました。何もお返しできなかったのですが、歌集『清明の季』(青磁社)を出す仲立ちをさせていただき、その歌集が第1回紫式部市民賞を受賞しました。治子さんの実力なのですが、私が入賞したかのように嬉しく思いました。
この歌集受賞に際してのお祝いの宴で大田青丘、洵子のお名前と土屋克夫、安永悦子さんらの詠草を懐かしく読ませていただきました。最晩年、治子さんが入院された京都府南部の青谷国立病院への道は遠く、辛いものでした。おりしも、山宣の命日に治子さんは帰らぬ人となりました。
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小田切明徳 〒612-8026 京都市伏見区桃山町伊賀6-5 TEL075・622・6889
井出美代さんと浜田繁治さん
タネさんが長寿でしたから、二女の井出美代さんと三男・浜田繁治さんにはお元気で長寿の記録を塗り替えていただきたいと存じます。繁治さんは2007年の生誕祭・宇治山宣会総会の際、鳥取から6人のお孫さんをお連れになり、「この孫たちの曾祖父の山本宣治がどんな人だったか、そして今もどれほど大勢の人びとに慕われ、その遺志がうけつがれているかを知ってほしいと思い連れてきました」と紹介されました。
もう一人の娘が二女の井出美代さんです。お二人ともに姓が違いますが、DNAは父親譲りです。丸岡秀子、安田徳太郎の取り持つ縁で長野県の佐久の酒屋三男・井出武三郎さんとの結婚を承諾したのが、親代わりの長男の英治さんでした。美代さんは姉・治子思いです。だから、「私は2人と結婚したようには思えた」と、武三郎さんが後日申されたことがあります。武三郎さんには安田徳太郎さんを紹介いただき、安田家のことをいっぱい教えてもらいました。
井出美代さんのご亭主井出武三郎さんについて補足します。井出武三郎さん(共同通信論説委員長?)の兄弟には、紹介するまでもない女傑の異母姉丸岡秀子、長兄は井出一太郎(三木内閣の官房長官)、源四郎さんは千葉大学学長、孫六さんは紹介する必要がないほど著名な作家です。ただの、佐久の酒屋の三男ではありません。