006010_平和への軌跡
【36】山宣と同志としての間柄の住谷悦治
2009年5月26日 11:23
同志社山宣会の会長をして頂いた関係で住谷先生にはいろんな教えを頂きました。そのころ同志社の「学友会」は赤軍派が牛耳っていて、校内が荒んでおり建物の屋上にコンクリートや煉瓦の破片が積み重ねられた時がありました。廊下にはいたるところに、アジビラが貼りまわされ、総長から見れば居たたまれなかったでしょう。そこで住谷先生は、「山宣は校庭を愛する会をつくってキャンパスを美しくする運動にもかかわりましたよ」と、その現状を憂いた事があります。その会は山宣が同志社普通学校入学時代に一緒になった高橋元一郎らと起こしたものです。高橋は山宣の同志社予科教師時代の図書館職員であり、山宣刺殺時に弔意を示す手紙を送られた方です。
山宣の性学と性教育の調査で‘07年にイギリス・ドイツ、カンボジア・対麵鉄道に旅しました。そこでの見聞から、山宣との関わりについて述べておきます。
イギリスでエリスの足取りを追跡する旅の途中で、前から気になっていたマルクスのお墓参りにいきました。ロンドンから地下鉄でハイゲート駅へ。工事中で観光案内図のように行けず難渋しましたが、ハイゲート学校の横を通りお墓へは急な坂を降りました。
墓地入口で入場料の徴収員がチェックに当たり、「もし写真を撮るのなら幾らか」と肩からぶら下げたカメラを見て要求してきました。墓群の中にあるマルクスの墓は、道に沿って奥まった所で、哲学者のハーバート・スペンサーの近くにありました。予想を超えた馬鹿でかいものでびっくり。これは潰れたソ連が「ソ連流共産主義宣伝のための権威づけ」に使おうと大きな像を作ったのでした。
おなじような感想を私の尊敬する住谷悦治先生も持たれておりました。私が同志社中学校に就職した時の総長で同志社山宣会会長をして頂いたのですが、先生は昭和9年5月から12月にヨーロッパ旅行をされた時にイギリスでマルクスの墓をしばしば訪れたそうです。
住谷先生のお名前を聞いて、想い出しました。
70年安保の時、京大のクラス(1A1)全員で、「安保改定反対決議」をあげて、クラスの皆で場所を分担して「クラス決議と円山集会参加の呼びかけ」のビラを配布していました。
今出川烏丸の同志社大学前でビラをまいていた学生2名が、突然現れた赤ヘルメット学生にいきなり顔面を殴られたそうです。皆、カンカンに怒っていました。
住谷先生も難しい時代に総長を勤められて、さぞご心労の毎日だったことでしょう。
その後、当時も真面目な同志社の学生も多かったことを知って、「さすが同志社の反戦の歴史」の深さを感じることができました。
悦治の甥のひとりとして、同志社にいささかの怨みありという弁をコメントする気になりました。
悦治が同志社の功労者を顕彰した1000ページの大著「ラーネット博士傳」を書き上げて、いよいよ畢生のテーマである「住谷天来伝」にとりかかろうとしたのが学園紛争のさなかだったのが(住谷一族にとっての)不運でした。当時、同志社総長という仕事は「天来伝」に時間を割けるようなものではなかったようでした。学生から教職員にまで「民青も革マルも中核もいる」同志社で、総長がつとまるのはキリスト教自由主義の住谷しかないとからと、「もう一期」さらに「何とかもう一期」と、結局3期12年を学園の正常化に捧げて、解放されたときは、もう「住谷天来伝」執筆の力はありませんでした。そのころ京都の自宅に伯父を訪ねたとき、「ボクもうだめや、天来伝はよう書かんわ」と、群馬県生まれながら身についた京都弁でしょんぼりつぶやいたのが耳に残っています。アルツハイマー症状が進行していました。
住谷天来は群馬県の養蚕農家の次男に生まれ、神童の誉れあり、慶應義塾時代にキリスト教に入信、卒業後郷里で廃娼運動など青年運動に活躍、カーライル「英雄崇拝論」の最初の邦訳者であり、「黙庵詩抄」の漢詩人でもあり、安中教会、甘楽教会を足場に長い伝道者の生涯を送りました。同じ上州の旧高崎藩士内村鑑三との肝胆相照らす交友の様子が鑑三の日記に残されています。高崎市に建てられた内村鑑三生誕百年記念碑の「上州無智亦無才、剛毅木訥易被欺、只以正直対万人、至誠依神期勝利」は天来との書簡往復から生まれた詩でした。天来は日露戦争前から非戦論を主張、後半生を個人誌「聖化」の編纂刊行に捧げましたが、その非戦論平和主義が当局の忌諱に触れ、1939年149号で廃刊を強いられました。
悦治は幼年時代から尊敬したこの叔父の手から洗礼も受け、終生傾倒私淑しました。総長退任後のある随筆に「わたくしは『住谷天来伝』を書かねばならぬと考えてきたことは実に永年の思いであった。ところが事、志と違い、最も執筆力のあったと思う時代に運命のいたずらか、同志社総長を十二年間務めねばならなくなったために、遂に『天来伝』の執筆の機会を逸して〔中略)年老いてしまった」と書いています。
「天来伝」のための資料収集は済んでいました。将来なされるかもしれない研究は、悦治による仮想の天来伝よりも学問的にはすぐれたものになり得ましょう。しかし、悦治の頭とハートに刻まれていた天来像はもう日の目を見ることができません。
非常に個人的なことで申し訳ないのですが。宇治の住人です。
昨年11月に九十四歳の母が他界し、戸籍収集等の過程で住谷先生や山宣の記事に行き着きました。
私は幼少のころは下鴨のお宅を遊び場にし、おばチャンやけいチャンに可愛がってもらい、昭和45年の結婚の際には仲人もしていただきました。昭和51年の父の学会葬にあたっては弔辞もいただきました。おばチャンが亡くなった時、先生から「思い出の投稿を」と頼まれていたのにお応えできず申し訳なく思っています。
父を偲ぶ会等では「山宣ゆかりの浮舟園で」と何度か招待されており、父は山宣とどんな関係かと。宇治興聖寺での母の納骨にあたって兄弟が集まる際にも浮舟園を利用する予定です。
恥ずかしながら私は父のことをほとんど知りません。また全くの門外漢で理解できるかどうか疑問ですが、先生や山宣や父の生きた時代や関係を少しでも教えていただけたら幸いです。