006010_平和への軌跡
【38】生き字引の田村敬男
2009年5月28日 11:43
田村敬男さんは、同郷(と言っても田村は松本出身)でした。同志社に勤務した関係で創立者の1人の山本覚馬(目の障害を持っていた)との関係もあり、田村さんは京都のライトハウスの理事長を務めていました。田村さんも足に障害を負っていてステッキを愛用していました。そんなことで、田村さんとライトハウスの役員でもあった住谷先生とご一緒する機会もあり山宣についての思い出もお聞きしました。
田村さんは山宣の同志であり、彼が代議士に当選した時の選挙事務局のメンバーとして活動しました。前年の制限選挙での衆議院補欠選挙京都府第5区(口丹波3郡)に立候補して489票で予想通りの落選でしたが、その総括文書『選挙戦における労働農民党の初陣』が素晴らしいもので、次の第1回普通選挙での勝利の基礎を作ったと言えます。
この補欠選挙では、遅れた封建思想の温床・山奥の集落へは自転車部隊が大活躍しました。山越え谷越え、自転車を担ぎ、一日平均37里余走り回り、宣伝ビラを配り、敵状を偵察しました。応援に駆け付けた学生たちが「労働者諸君!」と叫べども、風呂屋の煙突1本しかない亀岡の農民は組織できません。工業地帯の労働組合への扇動とは訳が違うのでした。
山宣亡きあとの、山宣葬儀の際にもタネさんと相談して裏から支えました。田村さんは「この葬儀は後世に残るものになる」から記録映画を撮りたいと言いだしました。京都三条サクラカメラでフィルムを買う段取りをつけてくれました。田村さんは松崎啓次、上田勇、北川鉄夫らに指示を出しました。上田は16mm撮影機を借り24時間で撮影技術を憶えて2台のカメラ隊をつくり、屋根の上から溝の中に隠れて警官から没収されないようにと撮影を続けました。出来上がったのが「山宣労農葬」・「嵐の日の記録」です。
なお、この記録映画はタネさんの叡智により守られ、同志社山宣会の佐々木敏二さんのポケットマネーにより、小坂哲人さんの援助で製作されました。田村さんがお元気な頃は、アドリブによる解説がされました。2008年・山宣没80年記念行事として復刻の予定です。
田村さんの山宣についての思い出は、『山本宣治』(室賀書店)に書かれており、西口小説の前はここからが出発点でした。下賀茂神社の北側にお宅があり、くぐり戸を開けてしばしばお邪魔しました。私が生物学の教師であったためか、「小田切君、ここが大事だから、よーく聞けよ。山宣の学問が単なる学問のためでなく人類の生成・発展のために実践活動を通して生かされなければならないのだ」と繰り返して聞かされました。
戦後、西口克己の小説「山宣」、映画「武器なき斗い」の前に、田村さんは戦前の山宣の同志たちの記録を収録した『追憶の山本宣治』(改定版、昭和堂)を出版。山宣の語り部として、我々に熱をこめて語ってくれました。田村さんの活動分野の広さも驚かされます。友人からの手記を募って出した書「語りし自伝」を見ただけで、活動歴が分かります。