006010_平和への軌跡
【39】佐々木敏二資料館長
2009年5月30日 12:02
佐々木敏二さんは、岩手から京大の哲学に学びたい、と出て来られ同志社でイギリスのJ・ロックを専攻されました。政治的な昂揚期に、正義感旺盛で多感な佐々木青年は演劇活動に、学生運動にと闊達に活動しました。この中で同志社山宣会に加わり、仲間と山宣生誕祭(5月28日前後)を行い、京大の「河上肇祭」と呼応して民主化運動を盛り上げました。
旧同志社山宣会は佐々木氏や佐藤峯夫、渡辺久丸らが中心となって、同志社山宣会生誕祭と山宣資料の整理・目録作りをやりました(総長・住谷悦治、同志社人文研究所第1研究「キリスト教社会問題の責任者」)。佐々木は同研究所の嘱託職員となり、約10年かかってこの仕事をやり抜き、評伝『山本宣治』(上下)を書きあげ、田村や西口の語りや、書かれた山宣像の不充分さを補い、全体像を明らかにしました。
この評伝執筆中に私は佐々木氏に出会い、指導を受け、共同研究体制に入りました。その「上巻」の生原稿をトランクに入れたヴァンクーヴァーへの弥次喜多道中は、私にとってはその後5回にわたるカナダへの旅のスタートであり、佐々木にとってはカナダ移民史研究の始まりとなりました。
旅行会社のパックツアーで、サンフランシスコ~ヴァンクーヴァー10日間の旅です。なぜ、野次喜多道中か? サンフランシスコの空港で私の空色のバッグが出てこないのです。大事な「山宣伝の生原稿、あわや行方不明か!」と、大慌て。だのに、空港の職員はこちらのロストバゲージを意に介せず、12時になると昼休みだと。それまで英語対応は英語を教えている佐々木さんに任せていたのですが、「君、交渉をやれ」というのです。仕方なく必死に応対しました。
こんな経験を積みながらヴァンクーヴァーの日加協会会長のジョージ・アキラ・イシハラの待つホテルへ行きました。Dr.石原明乃助の息子、Dr.ジョージ石原は歯医者さんで、北ヴァンクーヴァーの高級住宅に住まわれていました。当時、ヴァンクーヴァーの旧日本人街は日系人が商売をしていて活気がありました。お寿司屋さんでサーモンの照り焼きを御馳走になり、おいしかったのが忘れられません。この日本人街はその後訪れる度に寂れていきました。チャイナタウンとは大違いです。さみしい思いを持ちつつも現地社会にうまく同化するのが日本人の特質なのかとも思います。
佐々木さんと、山宣が生活をした跡を追跡しました。ハウスワークのハロ街、日系人がいた旧日本人街と、散歩に出かけたスタンレー公園、ストラスコナ小学校、ブリタニアン高校そしてスチーヴストン漁港跡。ここでは元漁民の松崎さんらの聞き取りができました。
佐々木さんは山宣研究で基盤を固めてから後、晩年の10余年はカナダ移民史研究で毎年ヴァンクーヴァーは元よりカムループスからトロントと日系人の活動した地域を訪れ、『カナダ移民史』(カナダ首相賞受賞)等の業績を積み上げられました。研究者としては日本ではマイナーな存在でしたが、『京大学生運動史』、『長野県下伊那社会主義運動史』等、山宣研究、治安維持法関係の時代の活動家の業績を掘り起こして本にされました。旺盛な文筆活動と大学における教育活動に触れる紙数がありませんが、演劇活動、バドミントン、スキー等の新体連の活動も熱心に進められました。
佐々木さんの私への最後のアドヴァイスは、『山宣・Henryの青春時代』執筆に際して、「いくら子ども向きの本だからと言って現地を見ないで書いてはあかん」と。そこで単身、佐々木方式の安旅行のノーハウに学び実践しました。安いエア・チケットを買い、空港からインド人ドライバーのタクシーに乗り、直にスチーヴストンの漁港へ行き、次にヴァンクーヴァーの山宣の足跡を尋ね、そしてカナディアン・ロッキーを列車で行くコースを採りました。
こうして私のヴァンクーヴァーへの旅は、山宣会のツアー、性教協のツアー、家族で、ウィスラーのスキー場とバスケットボール・MLBの試合見学と、若者向けの『Henry・山宣の青春物語』書くための単独調査でと、計5回となりました。